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Habari za Dar es Salaam No.177   "Maktaba ya Vijijini" ― 村の図書室 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 新年、明けましておめでとうございます。  2017年が皆様にとって、タンザニア、日本、世界にとって平和な年になりますよう祈念いたします。

📷 ルカニ村コミュニティーセンター  2016年10月31日にタンザニア日本人会商工部会の一行を案内して、ルカニ村に行ってきた。何年ぶりだろうかと考えてみたが、正確な記憶がない。妻や子どもたちは辻村さんに連れて行ってもらったりして何回か行っているが、私自身は記録を調べたらなんと20年ぶりということだった。この間、毎年辻村さんが入っているし、村出身のアレックスは同僚だから、頻繁に村の情報は入っているので、そんなに間が空いたとは思ってもいなかった。しかし、毎年AT(オルタナティブツアー)でお客さんを送り込んでいる身として、申し訳ない気持ちがした。

 10月のその訪問の目的は、フェアトレード(詳しくは「ルカニ村・フェアトレード・プロジェクト」参照)の現場である小農によるコーヒー栽培とその成果ということで、コミュニティーセンターでの村の首脳との挨拶、図書室見学、タンザニア・コーヒー研究所(TACRI)による苗木圃場・加工場の見学など、1時間ちょっとというあわただしい滞在だった。そこでその2週間後(11月15日~18日)、今度は妻と2人で少し長く3泊4日の滞在をした。妻も17年ぶりということだった。コミュニティーセンター、小学校、中学校、診療所、加工場などを回り、旧知の方がたの家を訪問した。久しぶりに訪れた私たちを温かく迎えていただいた。「長いこと来なかったなぁ…」と言われたが。

 今回の私たちの訪問の目的の一つは、ATで毎年村の小学校に寄贈してきた図書や、コミュニティセンターへ過去寄贈した図書の管理がどうなっているかということを確認することだった。コミュニティセンターはこのフェアトレードの成果(プレミアム基金を利用)として建設されたものだ。そのなかに4部屋あり、会議室、幼稚園と図書室・司書室がある。図書室には800冊以上の図書があり、その多くはUSAIDによる寄贈らしいが、そのなかには私たちを含めて日本からの訪問者による日本関係の図書も40冊ほどあった。スワヒリ語訳されている子ども向きの本が21冊、日本語のままの絵本が9冊、大人向きの日本語、英語の本が8冊(一部複数)という内訳だった。日本の絵本にスワヒリ語の翻訳を付け貼った絵本は、大阪大学スワヒリ語学科などの協力を得て、過去3回日本人のAT参加者が持ち込み、小学校や幼稚園で読み聞かせをしたものをコミュニティセンターへ寄贈していったものである。うち2回は参加者に図書館司書経験者がいて、その方がたの強い希望によって実現したものだった。

📷 ルカニ村図書室の日本関係図書書棚  私たちが毎年8月に催行しているAT「タンザニアの大地と農村滞在」は1986年に始まり、途中2年ほど中断はあったものの30周年を迎えた。ATを始めた際に各参加者は$10分拠出して児童用図書を購入し、村の小学校に寄贈するということを決め、細々と続けてきた。たかだか$10ではあるが、8月のツアーだけではなく年末年始や3月にATが催行されることもあり、あるいはATとは限らず大学のスタディーツアーや在留邦人のルカニ村とキンゴルウィラ村(まれにブギリ村)の農村滞在参加者には各人$10出してもらって、1年間たまったお金で8月のATの時にまとめて寄贈することにしているから、そこそこの分量の図書が寄贈できる。ATの寄贈図書はタンザニア国内で出版されているスワヒリ語の物語をメインに選んできた。寄贈される側の小学校の先生や保護者に「どんな本がいい?」と訊くと、辞書とか教師用参考書が挙がったりする。ある時はPCと言われ困ったことがある。どうしても児童用というより教師用の実用品・図書希望になってしまうのだ。

 これは実は無理からぬことかなとちょっと弱気になる気持ちもないではない。つまり公立小学校で図書室を持っているところは数えるほどだろうし、ましてや管理する司書の先生がいるところは稀有ではないか(ちゃんと調べていないけど)。そういう状況のなかで、管理上(持っていかれないように)職員室、もしくは校長室に保管するというのがありうる対応だろう。贈った図書が死蔵されないよう、ある程度実用的な辞書や地図などを混ぜて選んだ年もある。もっと言うと先生方を含め保護者たち自身が、子どもの時に絵本とか児童図書を読んでもらったり、買ってもらったりという記憶がほとんどないのだろうと思う。そうすると限られた財源のなかでの優先順位が低くなるのかもしれない。

 今回、ルカニ小学校を訪問した時は、あいにく学年末試験の真っ最中で、高学年(4~6年生)は午前から午後までずっと試験だった。校長先生以下、皆交代で試験監督をされていて忙しく、過去のATで寄贈した図書の保管状態は確認できなかった。やむなく、5年生の試験と試験の30分間の休憩時間をもらって、妻が持参した絵本の読み聞かせをさせてもらった。ルカニ小学校での読み聞かせの詳細は次に紹介してある。「ルカニ村で『わたしの「やめて」』の読み聞かせ」

 今回のルカニ村訪問では、キマロ先生のお世話になった。キマロ先生は1944年生まれの72歳。1952~56年ルカニ小学校(1~4年生)に通学、1958~61年キディア・ミドルスクール(5~8年生)で小学校課程修了。1962~63年カンパラにあるプリンス・ジェームス・シニア中学校(9~10年生)終了後、ミナキ師範学校からコログウェ教員養成カレッジに1964~66年通い、教員免状を取得された。1967年、タンガ州の小学校で教員を始め、1971年ルカニ小学校に転任した。1976~77年にルカニ小学校校長。1978~79年にほかの小学校校長に転任したが、1980年からルカニ小学校に戻り、1994年の退職まで勤務された。

📷 ルカニ村図書室で語るキマロ先生  小学校退職後も、幼稚園の園長さんなど教員を続けながら、ルカニ村の水管理員会や村会の役員、政党役員なども務められた。また、辻村さんがルカニ村のコーヒー農家の経営戦略の調査をする際には非常に優秀な情報役・助手を務められたらしい。その関係で2010年には訪日されている(「キマロ先生の訪日記録」を参照)。ご家族はタンガで結婚した女性との間に娘3人、タンガの女性がキリマンジャロの風土になじめず離縁となり、再婚した地元の女性(現在の夫人)との間に1男5女をもうけられた。皆成人され、村のご自宅には誰も同居していない。夫人が現在糖尿病を患っていて、ときどきモシの病院まで通院されている。私たちが案内をお願いした日も、夫人の通院日に当たっており、チャイを沸かしたりもご自身でされていたようで、申し訳なかった。

 現在もルカニ開発協会(LUDEA)の書記としてコミュニティセンターの管理人役を務めておられる。コミュニティセンターの図書室もキマロ先生の幼稚園が併存しているから、なんとか利用できる状態を保っていると言っていい。つまり、午後だけ入ってもらっていた司書の方への給与が払えなくなって開室が不可能になったのだが、キマロ先生の幼稚園に入ってもらい、その幼稚園の先生とキマロ先生に管理をお願いしている状態だ。電気代や水道代も捻出しなくてはいけないのだが、村会の方は渋りがちで、図書館司書の給与までは手が回らないようだ。それをフェアトレードのプレミアムで負担する案もないわけではないが、村人たちの子どもたちに本を読ませたいという思いへの優先順位が低いのなら無駄かなというのが私の意見である。

 コミュニティセンターと小学校以外に、中学校と診療所、コーヒー加工場などをキマロ先生に連れて行ってもらった。ルカニ中学校は2007年の創立。2007年からの中学校拡張計画に乗って、村人の自助努力によって作られたいわゆるKata(郷)立中学校で、校舎ができれば州政府が教員を派遣するという公立中学校である。創立10年を経過するのだが、教員宿舎がないため正規の教員は赴任したがらず、高校を卒業して大学への入学を待っている若い臨時教員主体でしのいでいた。現在も教員宿舎は足りず、私たちが泊まったアレックスの家に若い男の先生2人が居候していた。宿泊費は取っていないアレックス曰はく、「村の学校のためと自分の家の留守番代わり」とのこと、村人たちの少しずつの協力で、ゆっくりと進んでいる。ルカニ村だけではなく近隣の村落から生徒が通ってくるのだが、遠い生徒は片道2時間も歩くという。早朝、夕方の通学を考えると女子生徒用の寮がほしいところだろう。

 ルカニ中学校は村人たちの要望によって、フェアトレードの大きな目標となってきた。「キリマンジャロコーヒーを飲んで、ルカニ村に中学校を建てよう」というキャッチフレーズで多くの方がたの協力を得て、村人たちの自助努力による中学校建設の一助となることができた。中学校卒業後の高校などの上級学校への進学率は、ほかの公立中学校も抱える理科系科目の不振で低迷している。そのため2015年には日本大使館の草の根無償協力を得て、理科実験室、職員室棟が完成した。村人の描く理想の中学校全体像には資金が不足していたことを補うための草の根援助だったが、大使館の担当官が村人の希望をうまく掬い上げられず、まだ完成途上であるが。

 同じようにルカニ小学校も日本の草の根援助を受けて一部の教室の補修が行われている。これは当時の首相夫人がルカニ小学校の卒業生だったことが効いたのかもしれない。村の診療所は、もともとはドイツのルーテル派教会の援助で建てられ、運営されていたものだが、その資金援助が大幅に削られて、閉鎖の危機に陥った。その際に日本の関西の市民運動団体が支援をしたことがある。それで一時持ち直し、また給料をもえらえない医者が逃げ出して再度危機になり、それをフェアトレードが支援して、しかし村人たちは出産も自宅でするなど支出を控えるようになったりと状況が好転はしていない。その間の話は辻村さんの著書に載っている。しかし、今回訪問した診療所は清潔で明るかった。

📷 キンゴルウィラ小学校の新校舎  ルカニ村訪問の翌週(11月25日~26日)、今度はモロゴロ州のキンゴルウィラ村に向かった。案内人は会社スタッフのハミシで、ハミシは会社創設メンバーである亡きグビさんの甥(兄の子)にあたる。(グビさんのことは「グビさんの思い出」などを参照してほしい)。キンゴルウィラ村も数年前にモロゴロ市に編入され、畑が住宅地として区画整理されて分譲されたりして、外部の人間が多く入ってきている。聞いたところではキゴマ州からの人たちが多いという。その人たちは畑を持っているわけではないので、日干し煉瓦を作ったりする肉体労働に従事している人も多いようだが、そのための森林伐採が多くなっているらしい。小雨季の雨が遅れていて、ふだんは水が流れている小川も干上がり、そこに穴を掘って水を汲んでいる人たちが多くいた。

 外部の人たちが多くなっているというのは、例えばムベヤ州出身のオーナーの全寮制の女子中学校ができていたり、小学校の校長先生がカゲラ州出身だったり、村の診療所(現在は健康センターと呼ばれている)の所長さんの女性もイリンガ州出身という。30年前に初めて訪ねた時は小学校のマンゴー校長先生もキンゴルウィラ村出身だったように地元の人が圧倒的に多く、皆顔見知りというルカニ村と同じような雰囲気だったが、最近はより都市化されてしまった感じで、道行く人たちとも挨拶を交わすことが少なくなった。有名人だったグビさんも亡くなって3年経過し、その名前の神通力が弱まったか。

 キンゴルウィラ小学校は今年、日本大使館の草の根援助が付き、職員室や教室棟が新築された。7学年1,200人という大所帯なのに、従来は教室は各学年1つずつしかなく、小さな校長室はあっても職員室はないという状態だった。じゃぁ、先生方はどこにいるのかというと、教室棟の脇の廊下のようなスペースに点々と机を置き、1つの机の周りに2~3人ずつの先生方が椅子を置き、そこで執務しているという状態だった。今回、新棟が完成しても図書室はまだない。生徒用教室が飽和状態だからそれに回す余裕はないだろう。新しい職員室の隣に倉庫用の小部屋が2つあり、その一つに本棚を寄贈して私たちの寄贈図書を置いてもらうようにお願いしてきた。ついでにグビさんの小さな肖像写真も置いてもらうように頼んできた。立派なトイレも完成していたが、水がないから使えないという。ソーラーのポンプ付きの井戸を掘ればと思うけど、そこまでは予算計画にはなかったようだ。

📷 キンゴルウィラ小学校での読み聞かせ

 今回のキンゴルウィラ小学校での最大の目的は読み聞かせの実現だった。キンゴルウィラ村でも過去に読み聞かせをしたことはある。今夏のATでも、ルカニ村では図書館司書の方がご自分の希望で持ち込んだ絵本を2冊、スワヒリ語訳したインターンと一緒に読み聞かせをしたので、キンゴルウィラ村でも何かやろうということで、『わたしの「やめて」』をスワヒリ語訳したものを、参加者の大学生2名と同行するインターン(スワヒリ語学科)の学生さんに頼んで読んでもらうことにした。しかし、この計画は実現しなかった。

 もともと『わたしの「やめて」』は、2015年の集団自衛権の行使を可能にした安保法制の改正に反対した自由と平和のための京大有志の会の「声明書」の子ども語版なのだが、この子ども語訳をした人がかつてツアーでキンゴルウィラ村を訪れ、グビさんが案内したことがあるのだ。そのつながりで、是非キンゴルウィラ小学校の子どもたちにこの本を伝えたいという読み聞かせだったのだが。ただ、参加者の大学生にとっては「暗くなるから止めよう」というレベルの受け止めだったらしい。今の大学生たちは平和とか政治的な話題を避け、皆仲良しでいたいのだろうか。それが戦争をしたい人たちを助けていることはあまりにも明らかなのにと、ATの参加者にそういう感性が広がってきていることに30年間ATをやってきた身としてはがっくりした。

 キンゴルウィラ小学校の子どもたちはどう受け止めたのだろうか。キンゴルウィラ小学校での読み聞かせの詳細は次に紹介してある「『わたしの「やめて」』in キンゴルウィラ村!」。同席した先生、同行したわが社のハミシが、読み聞かせた日本人よりはるかに雄弁で、子どもたちも反応が良くえらく盛り上がった。「Sitaki(やめて)」というのを大きな動作をつける子どもたち。タンザニアでは平和な国で戦争は日常的にはない(30数年前に隣国のウガンダに攻め込まれた時は戦った)けど、戦争が始まったら大変だろうなということはごく自然に理解する。「暗くなるから…」と言った日本の大学生の感性はどこにあるんだろうとまた思ってしまう。それは個々人の若者の問題ではなく、現在の日本の社会の閉塞状況を反映しているものなのだろうか。

 どういう図書を寄贈したらいいのか、もっと先方の希望を汲みいれるべきなのか、あるいは児童図書の寄贈という運動が自己満足なのかとの迷いが今回の2つの村の訪問では解決しなかった。これからも日本の仲間たち、受け入れ側の村の人たちと話し合っていくことになるだろう。ただこれは「支援」ではなく、「交流・連帯」の形なのだから、手を出す私たち日本人の主体性の問題がより大きいだろう。

📷 キンゴルウィラ村から眺めたウルグル山塊  このキンゴルウィラ村にも日本大使館の草の根援助が2回付与されている。最初はグビさんたちの努力で実現した村の診療所。その診療所を訪ねてみた。今は健康センターに格上げされ、キンゴルウィラ村だけではなく、近隣の村から患者さんが通ってきている。内科、産科婦人科だけではなく、入院病棟や検査室・器具もあり、エイズ患者の相談室も設けられていた。かなり明るい設備で、利用者も多いようだ。日本政府とか根回しをしたグビさんへの感謝とか記憶は薄れていっても、実際に役立っているのを見るのは嬉しかった。ただ施設が大きくなると、運営・対応が官僚的になるのはやむを得ないことなのだろうか。

 小学校での読み聞かせ、診療所の訪問を終えた後、夕方にグビさんのお墓参りをした。ひっそり閑とした墓地に小さな墓標があるところで、グビさんの弟の息子さんがコーランの一節を詠んだ。何も飾るものがないのがグビさんらしくていいと思うのだが、日陰樹くらい植えていいかなと思って尋ねたら、別の甥っ子が「いいよ、来年の大雨季の時にジャトロファの苗木を植えよう」と言ってくれた。ジャトロファは乾燥に強いし、ある日本の企業が可能性を求めてタンザニアに進出を狙った下見の際に、グビさんがキンゴルウィラ村を案内して、その企業の人が気に入ってくれて村のサイザル農園の一角を借りてジャトロファを植えたのだ。その甥っ子はその企業で働いていた。残念ながら石油価格の下落とともに、ジャトロファのバイオ燃料としての価値が下がり、その企業は撤退することになったが、ジャトロファの農園は残っている。

 グビさんのお墓からの帰り道、農閑期で畑には作物がなくすっきりしていて、バオバブの樹が点在しているのが目立つ。その向こうにウルグル山塊がくっきりと姿を見せていた。グビさんと一番最初にこの村に来た時も、ウルグル山塊が迎えてくれたなぁということを思い出した。

☆参照文献☆  ・辻村英之『おいしいコーヒーの経済論・増補版―「キリマンジャロ」の苦い現実』(太田出版、2012年)  ・根本利通『タンザニアに生きる―内側から照らす国家と民衆の記録』(昭和堂、2011年)  ・自由と平和のための京大有志の会『戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」』(朝日新聞出版、2015年)

(2017年1月1日)

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