根本 利通(ねもととしみち)
昨年末、トゥンバトゥ(Tumbatu)島に行ってきた。といっても日帰り、それも滞在正味3時間弱ではあるが。1975年8月にタンザニア・ザンジバルを初めて訪れてからもう40年以上経つが、実はトゥンバトゥ島は初めてである。トゥンバトゥ島はザンジバル諸島のなかでは、ウングジャ(ザンジバル)島、ペンバ島に次ぎ3番目の大きさであるがかなり特殊な島で、外国人には渡航許可が必要と言われ、情報がほとんどなかった。1975年にダウ船の調査許可を持った英国人が、トゥンバトゥ島になかなか渡れなかったという記述を残している。ペンバ島からの漁民の移住者が住み着いた島と言われたり、その先祖はペルシアのシーラーズからの移住者という伝説もあり、古くから人が住んでいたことは間違いない。
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ムココトニの浜の船溜まり
昨年、トゥンバトゥ島に自生する独特な種類の椰子を撮りたいという研究者がいた。しかし、2015年11月のタンザニアの総選挙、そしてそのザンジバル部分が無効・再選挙(2016年3月)となったことをめぐって、主要野党の強力な地盤であるペンバ島の住民を中心に不満が渦巻き、一触即発の状況にあった。トゥンバトゥ島もペンバと同じく伝統的な野党の地盤であるため、似たような状況だと言われていたので行くのを止めていた。しかし、ある大学の学生がスワヒリ語のトゥンバトゥ方言を求めて島に渡って1泊してきたと聞き、情報を再確認し、渡航許可は不必要とわかったので、椰子の研究者を誘って年末に出掛けたという次第である。
トゥンバトゥ島に関する情報、特に渡航許可が必要かどうかを気にしていた時に、たまたま、9月にスワヒリ語の新聞に2日間にわたって、「国のなかの国、トゥンバトゥ」という記事が連載された。タンザニア人の女性記者がトゥンバトゥに行こうとして、ムココトニで「誰を訪ねていくのか?」と船頭たちに訊かれ、「誰も知り合いはいない」と答えたら、絶句されたという話から始まっている。そして知り合いの知り合いを紹介してもらって、「文化のことだけしか訊かない」という約束で訪ねて行っても、島ではまた「何をしに来たのか?」と訊かれたという。タンザニア人にとってもトゥンバトゥはよそ者を入れない秘境なのだ。
前置きが長くなったが、トゥンバトゥ島に渡るには、対岸のウングジャ島のムココトニ(Mkokotoni)から船で行く。引き潮の浜辺には大小数十艘の船が並んでいた。伝統的には帆を張ったダウ船で、それも多くあったが、私たちは時間を稼ぐために小さなエンジンを付けたボートをチャーターした。正確には、ウングジャ島在住の知人に手配を頼んだのだが、その人も生まれてから一度も(つまり60年以上)行ったことがないとのことで(ザンジバル人にとっても秘境?)、姻戚の人にまた頼み、その人はトゥンバトゥ島在住のムワリムさんと呼ばれる先生なのだが、島の船頭と話を付けてくれたのだ。
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トゥンバトゥ島の漁船
ムココトーニからトゥンバトゥ島まで約25分くらいだったか、波も穏やかであまり揺れなかった。島に近づくと帆を張った漁船が十数艘見える。島の主要産業は漁業で、獲れたものをムココトーニだけではなく、ザンジバルのタウン、タンガ、あるいは遠くダルエスサラームの魚市場まで運ぶという。ムココトーニの魚市場には大物はエイとかサメくらいしか見かけなかったが。漁船はンガラワという両側でバランスを取る丸木舟と、マシュアという小型ダウのようだった。トゥンバトゥ島ではダウ船建造は伝統的産業で有名だ。またトゥンバトゥ人は、漁師以外にもダウ船のクルーの供給源としても知られ、いまなお盛んに航海している沿岸ダウのクルーに多いといわれる。
上陸したのはジョンゴウェ(Jongowe)という村の浜だった。近づくにつれ、浜辺で泳いでいる男の子たちの数が多いのに気が付く。お客を満載してすれ違うエンジン付きボート。椰子の木陰で船を待っていた人たちが私たちのボートを目指してどっと浜辺に下りてくる。小さな島なのに人口が多い感じがした。これは村に上陸してから分かったのだが、前日とその日(12月27日~28日)、トゥンバトゥのマウリディというお祭りで、島出身者が多く里帰りしていたらしい。
私たちが着いたのはジョンゴウェだったが、島にはもう一つ村があり、そのより大きな村はゴマニ(Gomani)といい、地図でも船のルートはそのゴマニに行くように記載されている。私たちはそんなことも知らず、紹介されたムワリムさんの在住の村に案内されたのだろう。暢気なものだ。トゥンバトゥ島は、南北(8㎞)東西(2㎞)と細長い島だ。ゴマニは東岸の中央に位置するが、ジョンゴウェは南西端にあり、私たちはムココトニから島を回り込んでいった形になった。
浜辺に降り立つと、すぐにモスクがあり、手足を清める水がたんたんと湛えられている。傍にダウの造船所があり職人たちがいた。バガモヨのカトリック教会の庭にある樹齢150年のバオバブより太いかもしれないと思わせる巨木の下で、漁師たちが網を干したり繕ったり、午睡していたりするなかを、村に向かう。野党のシンボルカラーがあちこちに見られる。診療所や学校がある。強制されたわけではないが、村のシェハ(Sheha=村長のようなもの)に最初にあいさつに行く。外国人が勝手に動き回ったり、写真を撮っているのを気にする村人たちがいるだろうと思うから。シェハはニーザ・アリ・シャリフという女性だった。これは予想外だったが、旅の後に読んだ本ではトゥンバトゥのシェハには女性が多いと書かれてあった。
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ジョンゴウェからムココトーニに向かうボート
シェハの家で、この村、そして島の情報を聞く。村の人口は5,770人とのこと。もう一つのゴマニ村の方が大きくて1万人くらいいるから、島には15,000人以上の人が住んでいる。主要産業は漁業で、農業は自給自足程度で、キャッサバ、トウモロコシ、マハラゲ、ササゲ、野菜など。電気と水道はウングジャ島から海底ケーブルで引かれているが、全世帯にはいきわたっていない。煮炊きはガスはなく電気も使わずもっぱら薪を使っている。その伐採のため森林が減少しているので植林もしている。学校はシェハが学んだ時には2つの村の境のあたりに一つの学校しかなかったが、今は各村に小中学校併設の学校が一つずつあるとのこと。シェハの家にはまん中の天井がなく、雨どいから引いて水を溜めるようになっていたのが印象的だった。
シェハにこの島の歴史、遺跡の説明をできる人を紹介してくれと頼んだら、長老とまではいかないが50代の男性が来てくれた。一種のシラージ伝説のようで、現在残されている遺跡は1203年に移住してきたユスフ・アブダラーが造ったもので、船を泊める所、避難港を探しにやって来たのだという。ほかのアラブ人もすでにトゥンバトゥ島やウングジャ島に住んでいたらしい。ユスフは定住して仕事を始めた。仕事というのは商売=交易だったらしい。交易に使われたというサザエのような貝を見せてくれる。ユスフが移住してから35年経った後、ほかの町との戦争が始まった。GombaniとMakutaniとの間の東アフリカ最初の戦争という。ユスフの町(マクタニ)には56の家と3つのモスクがあった。ザンジバルで一番古いモスクだと語る。
この話は書物にも出てくる。ペルシア湾岸のバスラからやってきたユスフ・ビン・アラウィが、1204年マクタニに町を造った。大陸からチョンゴというアフリカ人のグループが海を渡ってきて、島の南端のチョンゴウェ(Chongowe)に住み着いた。ユスフは新来者を殺そうとしたが、彼らは隠れてしまった。その後、アラブ人たちが襲撃してきて、町を破壊し、多くの住民を奴隷とした。生き残った人々がチョンゴの人びとと結んだのが、現在のトゥンバトゥの人びとの祖先となったというものである。チョンゴウェとジョンゴウェは重なりそうだ。ただ、アラウィ一族というのはイェメンのハドゥラマウト出身であるはずなのだといわれていて、どこかに伝説の混同があるのかもしれない。
男性に話を聞いてからシェハの家を出て、遺跡に向かう。歩くのかなと思ったが、浜に下りてボートで行く。地図上ではマクタニ遺跡とか、シラージ遺跡とか表記されている。海岸に沿って数分走ると断崖の上にイクル(Ikulu)と呼ばれる遺跡が見えてくる。イクルというのは現在のタンザニアの大統領の公邸をそういうが、スルタンの宮殿など統治者の住居区を意味する。建物の礎石の跡が点在しているが、住居の様子はあまりうかがえない。もう少し発掘を進めれば見えてくるのか、あるいは風化が進んだ小さな遺跡なのか。ウシが灌木のなかに放牧されていた。
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マクタニ遺跡のイクル
イクルの跡を終えて、再度ボートに乗ってモスク跡に向かう。これは海上から眺めるとかなり高く、立派な遺跡のように見える。上陸してみるとイクル遺跡よりはしっかりと残っていた。モスクにつきものの井戸に子牛が落ちていて悪臭を醸していたのは艶消しだったが。対岸のウングジャ島の姿に向かってモスクの跡が広々として立っており、ミフラーブや文様もわかる。ウングジャ島の南部のキジムカジにあるペルシア風モスクが1107年創建でザンジバル最古ということになっている。これも旅の後に読んだマーク・ホートンの文によれば、このトゥンバトゥのモスクにも同じペルシア風の文字の刻印が残されていて、おそらくキジムカジのモスクの刻印と同じ職人の手によるという。またイランのシーラーフ(シーラーズの外港)の墓石から同じようなスタイルの刻字が発掘されたという。
シラージ伝説というのがある。タンザニア南部の最大の都市国家だったキルワと共通するもので、10世紀、ペルシアのシーラーズからの宗教的避難民が7艘の船に乗って移動し、スワヒリ海岸の7つの都市国家を築いたという伝説だ。その7つの都市の中にはトゥンバトゥは入っていないはずだが、共通の伝説に彩られている。『キルワ年代記』によれば、キルワ国家の創建は957年と推定されている。ペルシア湾岸から伝説のように一気にザンジバル、マフィア、キルワ、コモロの島々に渡航したのではなく、北東部のソマリア海岸から、ケニア北部のラム、パテ、あるいは南部のマリンディ、モンバサを経由し、タンガやペンバ島などを通過して、ウングジャ島周辺そしてマフィアやキルワといったタンザニア南部に移住してきたのだろうと思う。
そして、ペルシア人あるいはアラブ人がそれほど大量に移住してきたのではなく、紀元前から行われてきた季節風交易で生まれていた居留地に寄港し、風待ちをしながら寄食し、次第に定住していった。そこにもともとから住んでいた人々、クシュ系やバントゥー系の人びとと通婚し、文化的な混淆が生まれ、ただイスラーム以降はその影響力が強まったスワヒリ文化の祖型が生まれていったのだろうと思う。キルワのフスニ・クブワや大モスク、マクタニ宮殿などの世界遺産である壮大な遺跡に目を奪われるが、その周辺には現在発掘されえない一般の民衆の住居があったのだろう。その人たちは大陸本土からやって来た(連れてこられたのではない)漁撈民・農耕民であったのだろう。キルワなどではアラブ系・ペルシア系の血を引く人たちはかなり少なくなってしまったように見える。その点、ウングジャ島、ペンバ島には1964年のザンジバル革命以降大幅に減ったとはいえ、まだはっきり目に見える形でアラブ系の人たちは残っている。さて、シラジと自分を意識する人たちは何者なのだろうか?
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モスクの跡からウングジャ島を望む
ザンジバルの独立前の1948年の国勢調査でシラジと分類されていた人たちは、総人口264,162人中の148,480人で56.2%を占める多数派であった。次いでアフリカ人19.5%、アラブ人16.9%、インド人5.8%、その他(コモロ人、ゴア人、ヨーロッパ人など)1.6%となっている。アフリカ人というのはこの場合、大陸本土から来た人たちということで、旧奴隷の子孫とか、大陸からの出稼ぎできて住み着いた者を指す。シラジを自称する人たちは、彼らと自分たちを区別しているのだ。そのシラジをさらに分類するとハディム人、トゥンバトゥ人、ペンバ人となっている。ハディム人はウングジャ島の南部・中央部・東部に多く、総人口の15.8%。トゥンバトゥ人は、ウングジャ島北西部、トゥンバトゥ島、ペンバ島南部に住み、総人口の17.5%。ペンバ人はペンバ島の中央部、北部が原住地で22.9%を占めている。
ザンジバルの独立運動の過程では、アラブ人主体のZNP(ザンジバル国民党)とアフリカ人主体のASP(アフロ・シラジ党)が激しく対立し、中間層であるシラジの支持を求めて駆け引きを行った。単純化するとハディム人はASPに付き、トゥンバトゥ人とペンバ人はZPPP(ザンジバル・ペンバ人民党)を結成してキャスティングボードを握り、ZNPと連合して独立時(1963年12月)の連立政権の首相を出した。それをひっくり返したのがザンジバル革命(1964年1月)であり、それ以降しばらくの間、ペンバとトゥンバトゥの人びとは「反革命」とされ、外国人の往来も開発予算も制限されていた。
トゥンバトゥについて、前述した1975年のダウ船調査のために渡航しようとして苦労した英国人エズモンド・B・マーティンは次のように書いている。「トゥンバトゥの人びとは革命とカルメ政権に反対したため、開発予算の割り当てが少なく、その結果今や、私が見たタンザニアのいかなる地域と比べても最も貧しい。……私が動くと跡をついてくる数百の大人も子どもたちも茶色っぽいぼろのようなみすぼらしい服を身にまとっている。ゴマニは魅力のない密集した村である」。しかし、直近(2015年)の総選挙では、トゥンバトゥ選挙区では接戦だったが、与党(CCM)候補が勝利しているので、今は圧倒的な反政府地盤でもないようだ。
モスク跡から、ムココトニを目指して海峡を渡る。満潮になっていて、しぶきが体にかかる。ムココトニからは中型の汽船がやってくる。今日お祭りのもう一つの村ゴマニに客を運ぶのだそうだ。それ以外の小さなボートも乗客を満載してすれ違う。往路は遠浅の浜を長く歩いたが、復路は市場や倉庫がある浜の突堤の階段のところにボートが着いた。
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ムココトニで気勢を上げるトゥンバトゥ島出身の男たち
ムココトニの浜に上がったら、おまけが待っていた。幹線道路の市場と店が並んでいるところに30人くらいの男衆が旗の下に集まり、体を揺すりながら声を上げていた。集団の中の様子は見えなかったが、リーダーはカスタネットのような音が出るもの(おそらく木)を鳴らし、男衆はそれに合わせて体を上下に揺すり、おそらくアラビア語の掛け声をかけている。歌とも踊りとも祈りの儀式とも言えないようなものだが、なにやら楽しそうに熱中している。年配者もいるが若い男たちが多い。結社の結団式で気勢を上げているという案配だった。多くがコフィアではなくキレンバという布を頭に巻く正装なのだが、その巻き方がオマーン風ではなくイェメンのハドゥラマウト風のように見えた。
その迫力に度肝を抜かれ、口をあんぐりして眺めていたら10分ほどで終わったろうか、浜に向かいだした。同行者たちは動画を撮っていたのだが、浜に向かう一行のなかで「あいつらは写真撮っていたけど、金払ってくれるのかな」としゃべっている若者たちがいて、いきなりザンジバルの現実に引き戻された。私に話しかける男がいて「今晩お祭りだから来いよ」と誘う。「いや、今ジョンゴウェから帰って来たばかりだから」と答えると、「今度はゴマニだ。面白いから行こうぜ」とまた誘われた。トゥンバトゥ出身の出稼ぎの若者たちの心躍る帰省なのだろう。
もう半世紀以上も前の出版だが、トリミンガム著『東アフリカのイスラーム』という書物がある。そこにトゥンバトゥの宗教(イスラーム)の状況が触れられている。その記述が今でも有効かどうかは不明だが、「トゥンバトゥ島ではスーフィーのカーディリー教団の一派が有力でキラーマと呼ばれる。その入団式で、導師に向かいお辞儀を2回繰り返した後、太ももに触れ、こぶしを握る」(P.100)とあった。似た雰囲気・宗教的昂揚を感じさせる光景であった。ズィクルというのも違うようだし。トゥンバトゥのマウリディはほかの地域と違って特別なようで、今回はイスラーム暦の3月(ラビ―・ウル・アッワル月)の27日~28日だった。本で調べてもよくわからず、もう少し謂れを聞いてくればよかったと後悔している。
同行者によるブログも、参照してほしい。「ザンジバルの不思議なトゥンバトゥ島☆その1」および「ザンジバルの不思議なトゥンバトゥ島☆その2」。何とも心に残る小サファリだった。
☆参照文献☆
・J.Spencer Trimingham "Islam in East Africa" (Clarendon Press, 1964)
・E.B. Martin & C.P. Martin "Cargos of the East" (Elm Tree Books, 1978)
・John Sutton "A Thousand Years of East Africa" (British Institutein Eastern Africa, 1990)
・Mark Horton "Digging up Zanzibar" ("Tanzanian Affairs 35", 1990)
・Abdul Sheriff "Dhow Cultures of the Indian Ocean" (Hurst & Company, 2010)
・Johannes Masare "Background to the revolution in Zanzibar" ("A History of Tanzania", 1969)
・西野太郎 「アラビア語写本『キルワの情報に関する慰めの書』についての基礎的研究」
(中央大学修士論文、2003年)
・『Mwananchi』2016年9月26~27日号
(2017年2月1日)
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