根本 利通(ねもととしみち)
今年の日本の夏は酷暑といってよかったらしい。私自身7月に2週間ほど日本にいて、東京が39.5度を記録した日にいたからから実感した。35度ならともかく、ダルエスサラームでも38度なんていうことは滅多にないから、東京、大阪、名古屋のビル街で、完全に舗装された道路でエアコンの排出する熱気を食らうと、逃げ場のない暑さを感じさせる。
ダルエスサラームはこの時季、南半球だから涼しい時季、日本からアフリカへ避暑へというのも満更誇張ではない。海岸のダルエスサラームですら、朝は毛布を被る涼しさだから、標高1,900mを超えるンゴロンゴロなどは暖炉に薪をくべる肌寒さである。
今回は夏休みと言うわけではないが、当地の日本人会の夏祭りの話題をお伝えしたい。先日(8月28日)行われたものである。
夏祭りでは、各グループが屋台を出す。今年は、焼き鳥、うどん、おでん、お好み焼き、カレー、プリンが出た。それ以外にフェイスペインティング、ヨーヨー釣り、ダーツ、的当てなどのゲームの店が出て、また浴衣姿も多く盆踊りもやる。やぐらをを組んで太鼓もたたく。「日本にいるよりも日本的だ」と言った人がいるが、そうかもしれないと思う。
当日は日本人会員だけではなく、タンザニアで活動している青年海外協力隊員、出張、調査で短期訪れている日本人、日本人の配偶者である外国籍の人、その子供たち、日本人の子供たちの学校(国際学校、現地校)の友達などが集まり、子供たちには半被が配られ、神輿を担いだり、盆踊りには外国人も飛び入りして、雰囲気も盛り上がり、ほのぼのとした感じで終わった。 📷
ダルエスサラーム日本人会は、非営利法人としてタンザニア政府に登録されている。正式登録されたのは1991年だが、それ以前からは実体は存在し活動していた。実際にいつ発足したのかは不明である。正確に言うと日本人会の事務局がないし記録もなく、また誰も調査しないから分からないが、30年以上の歴史があるだろうと思う。というのはダルエスサラーム日本人会立としてダルエスサラーム日本語補習校があるのだが、その創立が1972年。当初は日本大使館立として大使館の敷地内の施設としてスタートしたが、1975年には日本人会立に移行している。従ってその段階で日本人会があったことは間違いなく、実は日本大使館が開設され、JICA事務所も置かれた1960年代後半から存在しただろうと思うのだが、ここらへんは当時の方々に確認しないと定かではない。
今年6月1日現在の会員は112名(内子供32名)。ダルエスサラームの在留邦人が殆どだが、外国人で日本人の配偶者の方、近隣とは呼べないモロゴロやモシ在住の方も名を連ねている。ただこの数は近年大幅に減少している。たった1年前(2003年2月)でも152名の会員がいたし、3~4年前には170~180名の数で推移していた。1990年代の数字は正確には記憶ないが、200名を超えていたと思う。
どうしてこうなったのだろう?タンザニアの経済が低迷してきたというのならともかく、タンザニアは長い社会主義時代、どん底の1980年代前半を通り過ぎ、自由化の時代に入り、経済的には少しずつではあるが上昇気流に乗っている。それなのにダルエスサラームの在留邦人数は80年代後半に比べ減っている。これは日本経済の停滞の反映だろうか。
子供の数の32名というと多いように感じられるが、学齢児(小中学生)の通う補習校生徒の在籍数に限ると10名に過ぎない。最盛期(80年代後半)には在籍31名に達し、日本の文部省から日本人学校への移行を勧められたことは、今や隔世の感がある。
それにはいくつか要因があると思われるが、日本人会会員のメンバー構成を見てみると、年配者(子供がもう高校生以上)の単身赴任、あるいは若夫婦、独身者が多いことに気が付く。30代後半から40代の人、いわゆる働き盛りの人が少ないのだ。日本の企業、あるいはJICAを含めて、経費のかかる家族持ちを出し渋っているのではないかと思われる。80年代後半には日本の商社だけで8社がダルエスサラームにオフィスを構え、それぞれに日本人駐在員を置き、家族連れも4社いた。日本の製造業、建設業の駐在員も数が多く、家族が住んでいた。今は商社は2社のみであり、民間企業の駐在員は全て単身もしくは独身者になってしまった。民間企業の厳しい状況がうかがえる。
一方、大使館、JICA関係者は減っていない。というか微増状態にあると思う。タンザニアが民間の商取引には向かないが、ODAの被援助国である状況を反映している。ただ日本のODAの漸減傾向を反映して、経費のかかる専門家、特に家族帯同は減っているように感じられる。もちろんこれには経費という面からではなく、晩婚化、少子化、共稼ぎ中の女性の進出という日本社会の反映でもあるだろう。
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もう1つ、20年間見てきた私の感想から言うと、日本人の保守化、個人主義化も要因の一つかという気がする。60~70年代日本企業は海外に進出していった。海外雄飛の時代である。90年代の韓国人、現在の中国人のタンザニアにおける「元気ぶり」を見ているとそう感じる。80年代にはもう日本は豊かになっていたが、未だ国際化を是とし、憧れるという流れがあった。その人たちは、あるいは日本へ早く帰ることを切望して毎日を過ごす人もいたが、一方では休暇でヨーロッパに行くことを楽しみにしたり、タンザニアの文化に興味を持つ人たちもいた。現在、駐在している若い人たちは、日本がもう豊かな国になってから育った人たちだし、殊更に国際化と言わなくても自然な形でそれを受け入れている。英語もかなり出来る。そういう人たちは休暇に、ヨーロッパに行ったりせずに、真っ直ぐ日本へ帰る。タンザニアの文化やスワヒリ語にも余り興味がない。タンザニアは援助する対象と見ているからだろうか。
また独身である人たちは、休日をつぶして日本人の家族連れと付き合うのは億劫なのか、夏祭りとか運動会にも出てこないし、日本人会にも入らない人も結構いる。海外に出てまで日本人とつるまなくてもいい、という考えはあるだろう。そういう考えで、タンザニア社会に向かうのなら、嬉しいことだと思う。ただ、役員のような面倒な事は御免だという発想がないとは言い切れないのではないか。
ダルエスサラームの日本人会は小さな町内会のようなものだと思う。小さな学校を維持し、子供たちに日本の文化、日本人の考え方、誇りを伝え、それをタンザニアの人、在留の外国人に向けて発信していくという役割を負った小さな組織だと思う。この町内会が中身を変えながらも、将来も続いていくことを願っている。
(2004年9月1日)
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