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Habari za Dar es Salaam No.6   NYERERE DAY ― ニエレレ・デイ ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ダルエスサラームはやっと暑くなってきた。まだ夜我が家でエアコンをつけるほどではないが、昼間のオフィスではエアコンがないと辛くなってきた。

 昨日10月14日はニエレレの命日だった。1999年10月14日の死去だから丸3年になる。先週半ばの新聞発表で国民の祝日となったことを知った。タンザニア人も知らなかった突然の休日で、5日前に祝日が決まるなんてタンザニアらしいと言えばらしい。 以前は祝日ではないが、服喪のための休日が前日発表なんていうのもあった。もっとも今回は10月4日に大統領は政令にサインしていたらしいが…。

 昨日はテレビなどではニエレレ特集で、1日中ニエレレの演説などの録画を流していた。ニエレレは演説が上手で、よく笑わせる。その巧みなスワヒリ語に私はついていけないのだが、ニエレレが最初にタンザニアの大統領になった40年前には、スワヒリ語の本場を自称するザンジバルの人から言わせたら、田舎もんのへたくそなスワヒリ語だったのかもしれない。しかしタンザニアの統一のためにスワヒリ語を採用し、ラジオ・教育で強力に推進したニエレレは、地方での演説を英語でやるわけにはいかず、どんどん巧みになっていたのだろう。そうすると今ザンジバルの人口は70万人、タンザニア本土の人口は3,000万人を超えるから(正確には国勢調査の結果待ち )、いくら「本場・正統」を自称しても話し手人口は圧倒的にタンザニア本土になる。スワヒリ語の主流というか、比重は本土のものに傾いていくだろう。

 ニエレレは個人崇拝の嫌いな人だったから、生前はニエレレの名前を冠した地名は少なかった。死後ダルエスサラーム大学やダルエスサラーム空港にニエレレの名前を冠しようという話もあったが、今も実現していないのは嬉しい。ニエレレ文化センターとかニエレレ通りは出来たが…。アフリカの他の諸国のように、独立後の歴史が短いので、紙幣の肖像がだいたい現役の大統領というのが多く、タンザニアもその例に漏れなかったが、2代目のムウィニ大統領が引退するまでで、3代目のムカパ大統領になってから、肖像部分はキリンになった。ただし、1,000シリング札は依然としてニエレレの顔のままである。

📷   ジュリアス・カンバラゲ・ニエレレ(1922~99)。タンザニア初代の大統領で、生前はムワリム(Mwalimu=先生)と呼ばれ、また「国父」(Baba wa Taifa)とも呼ばれていた。死後なお国民からは 強く慕われているが、外国人からは少しずつ忘れられていっているようだ。簡単に紹介してみたい。

 ニエレレは当時イギリス委任統治領タンガニーカと呼ばれていた植民地の北西部、現在のマラ州ムソマの近くのブティアマ村に、ザナキという少数民族の首長の息子として生まれた。ムソマの小学校、タボラの中学校を経て、現在のウガンダにあるマケレレ大学で教育学の学位を取る。その後短い教職経験の後、スコットランドで修士号を取得する。帰国後、ダルエスサラームで中学校教員をしながら、TAA(タンガニーカ・アフリカ人協会)総裁に選出され、政治の世界に入っていく。

 TAAの後身であるTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟)がタンガニーカの独立を担うことになり、1961年独立時に、ニエレレは首相、翌1962年に共和国となった際に、初代大統領になった。1964年のザンジバル革命の際には、ザンジバルとの連合を実現し、現在のタンザニア連合共和国を作った。

 ニエレレを有名にしたのは、1965年のローデシアのUDI(一方的独立)を契機とする、イギリス・西欧離れ、1967年のアルーシャ宣言によるウジャマー(Ujamaa)政策=アフリカ社会主義への道の採用だった。アフリカの伝統的共同体が持つ相互扶助の精神を現代に活かそうという、一種精神的な社会主義であったが、東西対立の狭間の70年代にあっては、新しい第三世界自立(自力更生)へのプロセスとして期待・注目が集まった。また当時解放闘争が続いていたポルトガル領アフリカ(ギニア・ビサウ、アンゴラ、モザンビーク)、ローデシア(現ジンバブウェ)、そしてアパルトヘイト体制が確固として不動のように見えて南アといった南部アフリカに残された「白いアフリカ」に対する前線諸国の議長国としてのタンザニアは第三世界の左翼知識人には魅力的な存在だった。中国の援助によるタンザン鉄道の完成や東アフリカ共同体の実験など、日本でもそういう輝けるタンザニアに対する憧れがあり、アフリカに行くならタンザニアという流れは小さいながらも確かにあったように思う。私が75~76年にタンザニアにやってきたのも、朝日新聞の特派員がナイロビではなくダルエスサラームに駐在したのも、そういう時代を反映していると思う。

 その後、1978~79年のウガンダの独裁者アミンとの戦争をきっかけとして、脆弱な経済は崩れ、長い低迷の時代を過ごす。社会主義だけの問題ではないと思われるのだが、官僚主義がはびこり、腐敗・非能率が横行するようになり、自力更生の理想とは遠くかけ離れ、援助依存体質が染み付いてしまうことになる。

 それでも今のタンザニアにはニエレレの理想がまだ残されているように感じる。その理想主義、平等主義、教育の尊重などなど…。ニエレレの最大の遺産は何よりも独立後41年間に渡って平和を維持してきたことにあると思われる。これはアフリカ周辺諸国の例を見ても分かるし、21世紀になってやたら好戦的な指導者を抱えた超大国の横暴に、世界中の理性が麻痺してしまい、「現実的であること」という名目で、武力に屈服していく世界の潮流に、ニエレレが生きていればどう発言しただろうかと思わずにはいられない。


(2002年10月15日)

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