根本 利通(ねもととしみち)
今年の大雨季はことダルエスサラームに関してはかなり雨量が多い。5月も下旬になってそろそろ明けるかと思われたころに、夜半バケツをひっくり返したような大雨がやってきて、目を覚ましてしまうようなことがままあった。お陰で我が家の周辺の道路は乾く間がなく、洗濯板のようになったまま辛抱の運転の日々が続く。
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壊されそうになった建物
かなり旧聞に属するが、2006年8月27日の「Daily News」のトップ記事にこういう記事が載っていた。
「ダルエスサラームの建物をめぐって綱引き」
ダルエスサラーム市内の古い建物で危険になったものを壊して、新しいビルにするという再開発の動きに、天然資源観光省とイララ市役所がストップをかけたという話だ。ダルエスサラームの一番の目抜き通りであるサモラ大通りとムクウェプ通りの交差点の南東角にある建物、1970年代からSalamanderレストランという当時は唯一のオープンカフェがあった建物といえば、オールドファンには分かりやすいだろうか。この建物を社会主義時代の所有者である国営住宅公団(NHC)から購入した企業が、「購入後3年も経って、居住に適しない危険な建物を放置していて、再開発しないのはけしからん」と6月に裁判所から警告され、罰金をくらいそうになったので、慌てて建物の撤去を始めようとしたら、今度は天然資源省とイララ市役所からストップがかかったというニュースだ。
その記事の中で注意をひいたのは「2006年5月に指定された歴史保存に関わる28の建物」という表現であった。世界遺産に指定されたザンジバルのストーンタウンと違って、ダルエスサラームの古い建物の保存という発想は聞いたことがなかったし、最近の再開発の流れの中で古い建物がどんどん壊されている。街中に夜でも住人が住んでいたダルエスサラームも、夜は街中がほとんど無人になり、怖くて歩けないナイロビのようになるかと漠然と思っていたので、ちょっと虚を衝かれた感じだった。そこで、少し古い建物、特に19世紀のものを調べてみた。「コロニアル・ダルエスサラーム」と称して、2回に分けてお送りするつもりだが、果たしてTembeaしきれるだろうか…?
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オールド・ボマ
まずダルエスサラーム市の歴史に簡単に触れておきたい。Dar es Salaamというのはアラビア語で「平和の家」という意味だとされる。ダルエスサラームは港なので、「平和の港」と言ってもいいかもしれない。ブルネイの国名はブルネイ・ダルサラームだ。19世紀以前のダルエスサラームはMzizima海岸と呼ばれ、小さな漁村だった。それを19世紀半ばに対岸のザンジバルのスルタン・マジッドが1862年、夏用の離宮を置いたことから発展が始まった。スルタンは離宮だけではなく、ダルエスサラームの港としての機能に注目し、後背地との物資の交流を考えていたようだ。1867年に各国外交官を集めて、港開きをした時の、ダルエスサラームの人口は900人ほどだったという非公式の統計が残っている。
1884/5年のベルリン会議での後で、タンザニア本土と現在のルワンダ、ブルンジはドイツ領となった。正確に言うと当初はドイツの民間会社であるドイツ植民会社の所有であった。現在のタンザニアとケニアの海岸線10マイルはザンジバルのスルタンの保有権が認められていた(その後、ドイツが租借後、買収)。ドイツ領東アフリカの首都は最初だけバガモヨにおかれていたが、1891年にダルエスサラームに移され、その時から本格的な都市形成が行われることになった。20世紀初めの人口は2万人程度だったようだ。第一次世界大戦でドイツが敗北し、タンザニア本土は国際連盟のイギリス委任統治領となった(1919年)。
天然資源観光省を訪れ、「歴史保存に関わる28の建物」のリストを要請してみた。簡単には出てこないだろうと思っていたが、やはり…。調査を依頼したまま再訪していないので、その後どうなっているか。閑話休題。
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イララ市庁舎
さて、ダルエスサラームに現存する建物の中で古いもの、19世紀の建築と思われるものを周ってみた。主としてドイツ植民地時代に建てられたものだが、スルタン・マジッド時代の物も残っている。1860年代の建造といわれるOld Boma。スルタン時代の役所で、港に面したソコイネ・ドライブに立っている。現在、国連の情報センターとなって使われている。
他にスルタン時代の建物で今なお現役のものといえば、フォロダニ・ホテル(1865年建築)とイララ市役所(1870年)が挙げられる。フォロダニ・ホテルはニューアフリカ・ホテルの側にあり、外装はきれいになっている。しばらくの間、政府のホテル従業員養成学校となっていて、その学生がウェイターをやるレストランがあった時代があった。今はナント地方裁判所らしい。写真を撮ろうとしたら、飛び出してきて文句を言う人がいた。今時、普通の建物の写真を撮っても文句言われないのに(港や駅でも)。市役所のビルは長い間ダルエスサラーム市役所の市庁舎だったし、ダルエスサラーム市が、イララとキノンドーニとテメケの3つの市に分割された後は、中心部のイララ市役所の市庁舎としての機能を依然担っている。
ダルエスサラームの港に面して、二つの古い教会がある。1898年創建のアザニア・ルーテル教会と1902年創建の聖ジョセフ・カトリック教会である。ルーテル教会は、ニューアフリカ・ホテルから海を見下ろすと目に入る。毎日曜日、大物たちや富裕層の一族の関係者の結婚式が行われ、賛美歌が聞こえる。ルーテル・ハウスというゲストハウスも経営している。ダルエスサラームのランドマークとしてザンジバルからフェリーで入ってくると目に付く建物だ。
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高等裁判所
ソコイネ・ドライブに面した高等裁判所(Magistrate Court)も19世紀の建物であるが、外装はきれいに修復されている。1893年の創建で、ドイツ植民地時代も高裁だったらしい。同じ時期の建造物で依然現役なのは、Secretariatビルといわれたもので、現在も地方裁判所の隣、ソコイネ・ドライブに面してあり、首相府の経済企画関係のオフィスが入っている。
State House(現在の大統領官邸)も、1891年のドイツ総督府の建物である。ただ、第一次世界大戦でイギリス海軍による砲撃を受け、現在のものは主要部分は1922年の再建という。これを撮影するのは、最近うるさくなくなったタンザニアとはいえ、やや憚られる。
それ以外の19世紀の建物というと、1897年創建のオーシャンロード病院。 現在は病院だけでなく、癌センターなどの保健省の各研究施設やWHOなどの外国の保健機関のオフィスも入っている。日本のJICAのマラリア・コントロール計画のオフィスもある。モスク風のドーム屋根があり、なかなか風格のある建物だ。
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ルーテル派教会
中央鉄道のダルエスサラーム駅も1890年代の建物だとされる。中央鉄道の建設計画は1895年ころに立てられ、タンガ~モシ鉄道の建設が先行したので、実際の建設は1905年から始まり、モロゴロまで開通したのが1907年(キゴマ到達は1914年)だから、ダルエスサラーム駅の建設は20世紀に入ってからだろうか? 年ころだろうか。1890年代の建設と紹介する文書もあり、私はきちんと調査していない。
また中央郵便局(Old Posta)の建物も、外装には手を入れられているが、基礎はドイツ植民地時代のものだという。ただ、今は外装は色を塗りたくられ、味気ない建物でその面影はない。
ドイツ植民地の役人の宿舎も、官庁街、植物園や国立博物館周辺に、赤レンガの屋根で平屋、二階建てでまだ少しは残っている。私が初めてダルエスサラームに来た1975年ころは、もっと多くの家が実際に公務員宿舎として利用され、手入れはされていないものの生活感ある使われ方をしていたと思う。ここ数年の官庁街の再開発、ビジネスビルの建設の中で、残された建物はひっそりと取り壊しを待っているような雰囲気がある。
赤道直下に近いダルエスサラームで、19世紀の建物が残っているというのは、保存というものに価値を見出さないまま来た環境からすれば、なかなか大したもんだという気がする。
参考文献『Dar es Salaam-City,Port and Region』(Tanzania Notes & Records No.71,1970)
(2007年6月1日)
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