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相澤

Habari za Dar es Salaam No.66   "Summer 1975" ― 1975年夏 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今年のダルエスサラームは大雨季に雨が多く降ったせいか、6~8月はかなり涼しかった。例年少し暑くなってくる8月後半でも、雨が降ると夜は寒く感じるほどで、そのころ日本では最高気温記録を更新し、3日間40度以上の日が続いたというニュースを聞くと、ささやかな優越感(?)に浸ったりした。さすがに9月後半に入り、暑くなってきた。

 今回は古い記憶をたどっての話をしたい。私が一番初めにアフリカに来た1975年夏のことである。手元に古いパスポートがないので7月だったか8月だったかはっきりしないのだが、うっすらした記憶では7月末の出発の予定で航空券を購入していたが、航空会社の事情で8月に入ってしまった。私と友人2人というアフリカ(反アパルトヘイト運動)仲間3人での旅行だったが、出発が遅れたために仕事を持っていた一人Sさんが断念し、学生だった私ともう一人Oさんとの二人旅になった。航空会社は今はアフリカに飛んで来ないPIA(パキスタン航空)。パキといって当時アフリカを目指した若者にはおなじみの懐かしい(おぞましい)思い出が絡みついてくる。

 なぜ古いセピア色(?)の思い出が蘇ったかというと、移転を間近に控えた日本語補習校の図書の中に見つけた宮本常一著「宮本常一、アフリカとアジアを歩く」(岩波現代文庫、2001年)をぱらぱらとめくっていると、宮本一行が東アフリカ(ケニア、タンザニア)を旅した記録があった。それは1975年7~8月で、しかもPIAで来ている。全く同じ時期に同じような経験をしたのかと思って読み出し、少し当時の記憶を思い出した次第である。

📷  まず宮本一行の旅を追おう。一行はアムカス探検学校の第8回目として旅した。総勢13人。記録は宮本の「東アフリカをあるく」とチーフであった伊藤幸司氏の「宮本先生とあるいた44日間」が載っている。伊藤氏の文章には頻繁に宮本の言葉が引用されている。宮本常一は高名な民俗学者であり、日本の農村を歩き回った人として知られているが、なんとこの東アフリカ行きが最初の外国の旅だったらしい。67歳にして初めてのPIAに乗ってナイロビへということだ。当時22歳にして初めて飛行機に乗り、PIAでカラチの銃痕の残るホテルに泊まった自分と重ねてみる。

 なぜ初めての外国に東アフリカを選んだかを宮本は書く。「アフリカのそれも東アフリカに一番心をひかれたのは、ここには大して大きな戦争のおこなわれたことがなかった、人間が武力や経済の力によって他人を支配したりされたりすることが比較的少なかった、そういう社会での人間と人間との関係、人間と土との関係はどういうものであろうか。それについてすでに成長しきっている国よりも、これから国民として成長していく民族の方に多く心をひかれる。そこにはまた学ぶべき多くのものがある。」

 一行は総勢13人で、最初と最後は一緒だが、中間は思い思いに散らばり、個人の旅をした。宮本は伊藤氏のピキピキ(バイク)の荷台に乗りタンザニアを、路線バスに乗りケニアを、もっぱら農村を歩く。タンザニアでいうとサメ、ルショト、カラツ、オルデアニ、ムブルなど、ケニアではニエリ、ナクル、ケリチョ、キシイなどである。農村に入り、畑を、農家を、子どもたちを見て、「戦前の日本の山村をあるいているのと少しもかわらない」と思う。

 日本の農村と比べる思いは何回となく溢れ出る。アルーシャ西郊のメルー山麓の農村では、トウモロコシ、コーヒー、バナナの畑を見る。さらにエンドウ、玉ネギ、トマト、ジャガイモ、サツマイモ、シコクビエ、カボチャなどがバラバラと植えているのを見る。「戦後日本の農政の失敗は作物の単一化だった。ここにはみごとな複合経営があるじゃないか。…技術的には日本の中クラスだが、山村地帯よりは豊かに見える」と思う。また「僕がここで農業指導をするなら、いまこの段階では家畜農耕に力を入れる。平原部にトラクターを入れたような大開発はかえって農民の首をしめることになる。…アルーシャやモシは周囲の農民の経済自立によって近代化していく。そのためには篤農家を育てて、自営農の技術を高めていくべきだ。小規模でもいい。資本蓄積できるレベルまであと一歩のはず」

 そしてトウモロコシの畑に心を打たれる。コメ、ムギを作っていないとなんとなく遅れた農業のように錯覚するが、トウモロコシの栽培技術の流入が、民族意識の統一、独立への道を歩ましめるにいたったのではないかとまでいう。タンザニア、そしてケニアで獲れるトウモロコシのみごとさを語る。点景としてカナダの技術援助によるコムギの大農場の試みも出てくる。

📷  ケニアをまわり、プランテーションのあるところに町が生まれたと感じる。ニエリのコーヒー園、ケリチョの茶畑。「タンザニアとくらべると、ケニアはずっと豊かだ。タンザニアであれほど多かったトウモロコシの立ち枯れがひとつもない。タンザニアではどの村にもTANUの旗が立っていて、その旗のあるところにトラクターがあった。…ケニアではトラクターをあまり見ないが、キクユ族(まま)が村ごとにコーヒー工場をもっていたように、農村工業が生まれつつある」という。ただケニアではホワイト・ハイランドといわれた肥沃な土地がほとんどだったとに対し、タンザニアではアルーシャ、キリマンジャロの山麓地帯はあるが、それ以外はマサイランドといえるような半放牧地帯を多く見ているので、一概には短絡できないと思う。ただすでにタンザニアではウジャマー社会主義が導入されていたので、ケニアの資本主義的開発との方向性の違いは出ていたはずだ。

 タンザニアは理想を持った国として描かれる。青空の下での成人識字学級にも出くわす。またスワヒリ語の効用も書かれ、英語重視で行こうとするケニア人知識人との意識の乖離も記す。果たしてスワヒリ語を国語に選んだ選択は功を奏するだろうか?

 タンザニアが独立の際に戦争を行わず、国連への働きかけで独立を克ちとった経緯を「このような国の誕生は全く珍しいことではないか…この国の発展には独自な道すじが予想されるととともに、そこにはまたわれわれの学ぶべき多くのものがあるのではないかと思う」と書く。

 タンザニアやケニアを心ゆたかな国という評価も繰り返される。ナイロビに到着したその日に空港から町までのバスに同乗しただけの縁のエドワードさん一家の家に招かれたエピソードは羨ましい。行く先々で優しく受け入れられ、「みな充実したしかも人びとのゆたかな愛情にふれる旅をしたのであった。このようなゆたかさは国の独立の中から生まれて来たものではなかろうかと思う」と書く。そして「今から40年前の日本の村もこうであったか…」と懐旧の情に浸る。

📷 さて私の方の思い出に触れよう。カラチ経由でナイロビにたどりついた私たち二人は、遠来の母親を迎えに見えた在留邦人の方に拾っていただいた。空港から路線バスに乗ったアムカス一行と比べて楽をした感じである。その在留邦人Tさんは静岡県の出身で日本茶の農園を経営しようとしていた。駿河銀行を背景にしていたのだと思う。静岡新聞の特派員をしばらく務めたムゼー星野芳樹さんが、通称星野学校と呼ばれた「アフリカの大地に塩をまく」作業を始めたのも1975年だった。私たちは星野学校の1期生に少し遅れて到着し、9ヵ月後には2期生とすれ違って帰っていったことになる。初期の星野学校は1年間だったし、多くの若者がここで学んだ。今日本のアフリカ研究・交流の最先端を担う人たちを多く生み出している。故人であるムゼーの思いは達せられていると思う。

 私個人は星野学校の空いていた学生寮に泊めていただき、ムゼーの弁舌を何回か拝聴したが、「おめえら赤軍派にアフリカのことなんか分かるか、まずアフリカの女を抱いてからものを言え」ようなこと(言い回しは正確ではない)を言われたという記憶が強い。

 ナイロビから知人のケニア人の実家のあるケニア山山麓の村に行った。いわゆるギクユランドで、豊かな農村地帯である。丘陵の連なりの中で、めいっぱい耕作された畑が眺められ、豊かさを感じた。私の最初のアフリカ体験が、ギクユの村であった幸運を今思い出す。というのはその後ナイロビからモンバサ、モシ経由でダルエスサラームに来る間、飯を炊いた匂い、油っこい食事に馴染めず、1ヶ月間で体重を5kg減らしてしまった自分をを覚えているからである。観念からではなく自然にアフリカに対応していたかというと全く自信がない。アフリカの大自然や野生動物に対する憧れからではなく、音楽や絵画といった文化に対する興味からでもなく、世界史の中におけるアフリカの欠落という問題意識から入り、その過程でアパルヘイトに対する闘いに共感し、というアフリカへの入り方に対してムゼーは「赤軍派」という言い方をしたのだろうかと、ふっと振り向くことがある。

📷  タンザニアの乾燥したサバンナの大樹の下の成人識字学級には私たちも出遭った。ダルエスサラーム大学の学生たちは、理想に燃えているように見えた。70年安保の後に大学に入った私たちにとっては、日本に失われたものをタンザニアに求めているような後ろめたさをちらっと感じたことを思い出す。

 私が思い返しても1975年のころ、既にケニアとタンザニアは行き方が少しずつ離れだしていたし、同一価値であるはずの通貨(シリング)にも格差が歴然としていた。しばらくの間は「ケニアの方がうまくやっている」というのが一般に認識で、私のようなタンザニアびいきは変わり者あるいはやせ我慢とみなされていた。ただ、ニエレレの理想が支えだったのかもしれない。ケニアもタンザニアもどちらも夢を追っている、あるいは理想を掲げているその息吹を感じたと思った。

 1975年に宮本一行や私たちが感じた思い、期待・予測が、その後どういう展開を経て、どう実現し、あるいはどこで、誰のために(?)捻じ曲げられて行ったかは検証できるだろう。また私たちのような第三者が感じた予測というのがいかに外れていたかも確認できるかもしれない。32年前に私たちや宮本一行がタンザニア、ケニアで感じた思いを、現在のタンザニアやケニアを旅する人たちが感じられなくなったとしたら、それはなぜなのか?「衣食足って礼節を知る」のか、人間の心というものは開発は進むと所詮荒んでいくものなのか、人間の叡智が問われるのはいつの時代も同じだろうと思うし、時代の制約は認めつつも時代の流れに安易に流されてはいけないと自戒を繰り返すことになる。

☆追記☆ なお、このページに載せた写真は上記の岩波現代文庫中に掲載されている写真を借用しています。撮影者は伊藤幸司氏であると思われます。本そのものの著作権者は宮本千晴氏と記載されています。1975年当時の私の撮った写真は今日本にあるので、借用させていただきました。もし、著作権上の問題があれば、ただちに削除します。

(2007年10月1日)

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