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Habari za Dar es Salaam No.73   "Bi Kidude na Karne yake" ― Bi Kidude とその世紀 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ザンジバルではSauti za Busara(知恵の声)という音楽祭が毎年開かれている。今年(2008年)は2月7日~10日に開かれた。今回で5回目である。今秋訪日予定のバガモヨのCHIBITE楽団も過去2回(2005年、2007年)参加している。東アフリカ(ザンジバル、タンザニア本土、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、コモロ)を中心として、アフリカ大陸、インド洋世界などから、さまざまな音楽家が招かれて出演している。

📷 ビ・キドゥデ  今年の参加者の国籍を調べると東アフリカからだけではなく、西アフリカ(マリ、セネガルなど)からも有力な歌手が参加していて、アフリカだけでおそらく19ヶ国いたし、ヨーロッパの各国からの参加もあり、25ヶ国以上にも上った。その中にサカキマンゴー(日本)がいる。サカキマンゴーはCHIBITE楽団の父である、故フクウェ・ザウォセにイリンバで師事し、またジンバブウェのンビラなどの親指ピアノ系の楽器を中心とした音楽家である。サカキマンゴーの出演は8日の夕方であった。このお祭りの記事は金山麻美「タンザニアからの手紙」No.27を参照されたい。

 さて、今回とは限らずこの音楽祭の最大のヒロインはBi Kidudeという歌姫である。生まれた年は不明で、推定95歳という歌姫である。このBi Kidudeを主人公にした映画「As Old As My Tongue」はかつてイギリス人(?)によって撮られていたが、今回は日本のテレビ局がBusaraをめぐる3週間のBi Kidudeを追っかけで撮ろうとしていた。そのディレクターは音楽が好きなのだが、音楽だけではなく、そこで歌われる一世紀の間のザンジバルの歴史、文化、風土というのを浮かび上がらせようとする野心的な企画だった。

 その番組自体は3月19日放映され、好評だったらしい。ただ地上波ではないので、どの程度の人が観られたかは心もとない。今手元にあるそのDVD「はだしの歌姫の一世紀ーザンジバル・風待ちの島で」を観ながら、少し解説したい。

 Bi Kidudeは1910年代前半、ザンジバルのウングジャ島(ザンジバル本島)に生まれた。生まれた地域はウングジャ島の中央部の農村だったらしい。少女のころ、ストーンタウン郊外のンガンボにやってくる。ンガンボというのは「対岸、向こう側」という意味で、もっぱらアラブ系、インド系の人たちの住居区であったストーンタウンから見ると入り江を挟んだ対岸で、ストーンタウンに働きに通うアフリカ系の人たちの住居区であった。

 ここで20世紀初頭のザンジバルの状況を簡単に説明しておこう。ザンジバルは19世紀は象牙と奴隷の貿易で栄えた島であった。欧米への象牙の輸出、現在のモーリシャス、レユニオンなどのさとうきびプランテーション、アラビア半島などの家内労働、ザンジバルのクローブやココヤシのプランテーションなどの労働力需要のために、奴隷貿易のキャラバンが組織され、ザンジバルから対岸のバガモヨに渡り、内陸のタボラ、ウジジを経由して、タンガニーカ湖を渡り、コンゴ東部まで。あるいは、キルワ経由で南下してニアサ(マラウィ)湖周辺まで、象牙と奴隷を求めてアラブ人のキャラバンは出かけた。ティプーティプという有名な奴隷商人や、キャラバンの資本を出したインド人商人は巨額の富を蓄積した。現在のスワヒリ語の広がりはこのキャラバンルートと重なり合う。

📷 シティ・ビンティ・サード  1873年、イギリスの圧力でザンジバルの奴隷市場は閉鎖され、1890年イギリスの保護領化されたザンジバルで、1897年奴隷制度も廃止される。解放された奴隷は、都市に住んでいた家内奴隷は元の主人と結びついていることが多かったようだが、農村部にいた人たちの一部は、自由と幸運を求めて、都市を目指した。都市といってもストーンタウンだけであるから、その対岸であるンガンボに流れ込むことになる。20世紀初頭、ンガンボの人口は急激に増大した。

 1910年代前半、Bi Kidudeが生まれたころ、タアラブの革命児として登場するのがシティ・ビンティ・サード(Siti Binti Saad)である。Bi Kidudeの先駆の女性と言ってもいいだろうか。シティもンガンボからさほど遠くない郊外の農村に生まれた。生まれた時に名づけられた名前は名前といえるかどうか、ムトゥムワ(Mtumwa)ということであり、これは家内の召使、もっというと奴隷を指す。シティの家の出自を示している。シティの両親もアフリカ大陸出身であったとされる。

 シティは1911年ころ、この「大移動」の波に乗ってンガンボに移住した。そして2度目の結婚の後、タアラブの歌手としてデビューすることになる。タアラブというのは1870年代、当時のスルタン・バルガシュがエジプトから導入した宮廷音楽で、王宮はじめアラブ人支配層の音楽として男性歌手によってアラビア語で歌われてきた。それをシティはアフリカ人の女性として、スワヒリ語で、ンガンボ地区で歌い、支配層の音楽だったタアラブを大衆化した革命児だった。

 当初さまざまな妨害、中傷にあったシティだったが、最後にはシティというアラビア語でLadyに当たる通称で呼ばれるようになる。シティのバンドの中心メンバーはシティを含めて5人だったらしいが、その内3人がザンジバル生まれ、2人がアフリカ大陸(マラウィとケニア)生まれだという。その出自から、シティのタアラブの性格が現れていよう。1928年、ンガンボがその地代の値上げ反対のストライキで激しく揺れたその年、シティとそのバンドは、インドのボンベイ(当時)でコロンビア・レコードの録音をするまでに成長していた。

 シティの人生を語ることは短くしよう。Bi Kidudeが「10歳のころ、私は夜家を抜け出し、シティが歌っている家の外のベランダでじっと聴いていた。覚えるまで」と語っているのが印象深い。Bi Kidudeの歌のレパートリーにはシティの歌った歌が多い。番組の中で歌っている「アラミナドゥラ」や「ジャンゴンベのキャッサバ」などである。ご本人は「そのまま」と言っているが、元歌とはだいぶ変わってしまったのもあるようだ。

📷 1910年ころのンガンボ  Bi Kidudeが少女から大人になっていった時代は、第一次世界大戦から第二次世界大戦の間の時代である。民族独立の運動はまだ伏流下であり、大恐慌の中、植民地支配は強化されていった。Bi Kidudeがダルエスサラームに出たのも、この時代である。

 第二次大戦後、世界を覆う民族独立の波にザンジバルもタンガニーカも乗った。ザンジバルでは1950年代から独立運動が本格化する。この中で、大きなキャスチングボートを握ったのは、シラジと呼ばれる人たちである。このシラジの解釈は難しい。語源的にはペルシアのシーラーズから来た人々の子孫ということで、「われわれは元々の祖先はアフリカ人ではないんだ」という意識がどこかに残っている。ザンジバルの町を歩くと、アフリカ大陸の人とはちょっと違った、アラブやペルシアの血が混じっているだろうと感じる容貌の人たちがかなりいる。その人たちがシラジというアイデンティティを持っていたと思われる。つまり、自分たちは奴隷として連れてこられたアフリカ人の子孫ではない、ということだ。

 独立前にイギリス植民政府が調べた人種・民族別の統計が、20世紀前半に3回ある。アフリカ人、アラブ人、インド人、その他(イギリス人など)という分類だが、アフリカ人はさらに、大陸アフリカ人のザンジバル原住アフリカ人に分けられる。ザンジバル原住ザンジバル人はさらに、ハディム、トゥンバトゥ、ペンバ、スワヒリ、シラジと分類される。第一回統計(1924年)には多かったスワヒリ人(33,944人)、シラジ人(26,430人)という分類が、第三回目(1948年)には、それぞれ290人、175人に激減している。これはもちろん、この人たちがいなくなったわけではなく、分類替えされててしまったのである。それはイギリス植民地当局が、スワヒリとかシラジといった出自が曖昧なのを嫌い、人種民族別に差別支配構造を強化しようとしたのだという背景はあるが、ザンジバルに住んでいた「アフリカ人」の自意識の微妙さも示しているように思われる。ともあれ、1948年の段階では、大陸アフリカ人に対し、ザンジバル原住(と自称する)アフリカ人は3倍近く存在し、最大勢力であったことは重要である。

   ザンジバルがイギリスの支配に対し、独立を求める運動の中で、主導権を先に握ったのはアラブ系であった。アフリカ系はシラジ系と結んでアフロシラジ同盟を作るが、ペンバ島に多いシラジ系の人たちは脱退して別の政党を作り、アラブ系と結ぶ。このアラブとペンバのシラジ系との政治連合が、ザンジバル独立の際の支配政党になり、それをアフリカ系が暴力でひっくり返したのが、1964年のザンジバル革命であった。

 この番組で、個人的に非常に興味深かったのは、ザンジバル革命時の映像である。貴重なものだと思う。BBCニュースからだと思われるが、どうだろうか。暴力のリーダーだったウガンダ人オケロや、アラブ系の老人がアフリカ系の若者に引き立てられ、あごひげをむしられようかとしているシーンもあった。

 この番組の中でBi Kidudeは革命についてこう語っている。「革命は私たちが望んだものではなかった」。でも近くで誰彼なしに襲われ、死体を見ている。泥棒(略奪)も日常化した。集団ヒステリーの中で、Bi Kidudeも棍棒を持って走ったのだろうか。隣り合って仲良く住んでいた人たちが突然棍棒や斧を持って襲ってくる恐怖。仲良く住んでいたというのは幻想に過ぎなかったのか‥コスモポリタンに見えた世界は、実は抑圧・被抑圧の関係の社会だったのか‥

 ザンジバルは1964年の革命後、社会主義の急進化を恐れる欧米諸国の後押しで、タンガニーカと合邦して、タンザニア連合共和国の一部となった。ニエレレ大統領という稀有の指導者の重しを得て、暴走が抑えられたと見ることが出来る。暴力革命の後に支配したカルメ政権は独裁だったといっていいし、多くの人が投獄された。そしてカルメ自身が暗殺された。社会主義諸国の援助があったとはいえ、ザンジバルは経済的にも暗い時代を過ごすことになった。この約20年間の社会主義時代に、タアラブも労働者や農民のことを歌うようになる。必ず男の歌手がリードを取る「ヤシの実取りと農民」などが代表だろう。恋の歌が禁止された時代もあったらしい。この時代のことは、ザンジバル人のある程度の年齢層の人たちにとっては心の傷となっていて、口は重たい

📷 タアラブ楽団の演奏  1985年、ニエレレ大統領が引退し、当時第三代ザンジバル大統領だったムウィニが、タンザニア連合政府の大統領となると、タンザニア全体が社会主義から距離を置きだし、1992年の東ブロックの崩壊から、一挙に経済の自由化が進んだ。その中で、政治の自由化、具体的にいうとCCMの一党独裁が崩れ、複数政党制が再導入され、1995年その第一回総選挙が行われた。タンザニア連合政府では与党CCMが圧勝したが、ザンジバル大統領、ザンジバル議会では与党CCMと野党CUFとの熾烈な選挙戦が闘われ、結果は僅差で与党が勝利したことになっているが、野党が勝っていたという状況証拠は多くあり、抗議した野党支持者に多くの犠牲者が出た。この熾烈な選挙戦の最中に、与党のキャンペーンでささやかれたことは、「血で購ったものを、紙なんかで返せるか」ということである。その後2000年、2005年の総選挙でも、熾烈な競り合いの後、与党が勝った。

 ザンジバルは今でも圧倒的にイスラーム社会である。革命でアラブ系の支配層を打倒して権力を握ったアフリカ系の人たちも、ムスリムであることが正統派である根拠だと思っているように見える。色の濃いアフリカ系の容貌をした人たちも、ラマダン(断食月)には、コフィア(イスラーム帽)を被り、白いカンズをまとう。女性はベールとブイブイを被る。権力を握った男たちは、アラブ系の色の白い女性を娶りたがる。敬虔なムスリムであり、アラブ風の服装をすることが、地位向上の証であった時代のように。

 その中で、Bi Kidudeのように公然とタバコを吸い、ビールを飲む姿に、眉をひそめる人も多い。理解を示す人たちも「あれは新しいムスリムの姿だ」というような表現をする。ムスリムの範疇内だということだ。当のBi Kidudeの信仰はどうなのだろう?ラマダンでも断食しないのか?番組の中で、Bi Kidudeがウニャゴを演じて見せた。これは「外のウニャゴ」といって、本当の「内のウニャゴ」つまり少女の成人儀礼のほんのさわりの部分を公開しているものだが、これにはイスラームの影はなく、明らかにアフリカ大陸内部から来たものだと感じた。Bi Kidudeには「アラブ人のようになりたい」という上昇志向はなかったのだろうし、アフリカ人として生きてきたのだと感じる。ただ、ザンジバルの社会の中で、これはアラブからとか、これはアフリカ的要素と分別することにどれだけ意味があるのか‥それを利用しようとするのは政治の世界ではないかと思う。

📷 現在のザンジバルのンガンボ.©宮崎久美子  ザンジバルがコスモポリタン的世界であったことを、このDVDは浮き出させている。西インド洋世界というものがあり、インド、ペルシア、アラビアからダウ船に乗って人々が往来し、交流し、婚姻し、イスラームを基調としたスワヒリ文化を発展させていった。イギリス人、ドイツ人といったヨーロッパ人の来航、さらには中国人や日本人といった東洋人も少数ながら存在していた。

 そのコスモポリタン性を暴力的に断ち切ったのは1964年のザンジバル革命である。アラブ系の人々は殺されたり、多くは亡命した。亡命先はタンガニーカであったり、マスカット、ドバイであったりした。1975~76年にダルエスサラームでは元ザンジバル、ペンバの人々が集まって住んでいる地区があったし、ペンバ人には職業で運転手をしている人が多かったと思う。直接攻撃の対象になることは少なかったインド系の人たちも、経済の混乱を嫌って、タンガニーカや外国に移住した人が多かった。ザンジバルは沈滞した雰囲気が覆い、数少ない観光客用のホテルには閑古鳥が鳴いていた。ストーンタウンの中の住居も老朽化し、無人の住居は崩れ落ち、サンゴがむき出しになり、ゴミ捨て場と化していった。それは1980年代後半の経済の自由化まで変わらなかった。1975年にダルエスサラームで出会ったザンジバル人たちは、10年後にはオマーンへの脱出を果たし、アラブ人に戻って生活している人も多くなった。でも、ザンジバルに残った人々もいて、オマーン、アラブ首長国連邦に住んでいる親戚からの送金を待ち、また青年は出稼ぎに行くチャンスを待っていた。 

 1990年代になって、主として観光業への投資で、ホテル特に東海岸のビーチリゾートやダイビングショップ、土産物屋などが、イタリア人を始めとするヨーロッパ人によって続々と開かれ、少なくともウングジャ島は活気を取り戻した。ストーンタウンも修復にアガカーン財団の資金が付き、少しずつきれいになり、2001年にはユネスコの世界遺産に指定され、観光客が闊歩するようになった。亡命していたアラブ系、インド系の人たちの中でも、戻ってきた人たちも少数だがいる。2000年代に入ると、インド洋世界への買出しが日常化し、バンコク、香港、広州、そして日本へと、ザンジバル人だけではなく、本土のタンザニア人たちも頻繁に往来を始めた。インド洋世界を超えて、タンザニア人たちのコミュニティが広がりだしている。

 今日ストーンタウンを歩くと、さまざまな顔や服装ををした人たちが行き交う。あたかもコスモポリタンな社会が戻ってきたように。だが、それは観光地の姿、帰っていく人たちで、その土地に住む人たちの姿ではない。ザンジバルに観光のお金が落ち出すにつれ、マコンデ彫刻、ティンガティンガ絵画という土産物を売る人たち、マサイの姿でガードマンをやるタンザニア本土の人たちが流入し、イスラーム社会との不協和音を立てている。変わっていく社会、変えたくない人たち、戻したい人たちのせめぎあいの中で、ザンジバル社会は動いている。

 この項では次の本を参考にさせていただきました。  ・富永智津子「ザンジバルの笛ー東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化」(未来社2001)  ・Laura Fair「 Pastimes & Plitics - Culture,Community, and Identity in Post-Abolition Urban Zanzibar,1890-1945」(Ohio University Press,2001)

(2008年5月1日)

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