根本 利通(ねもととしみち)
モロッコの旅から1年近く経った。またタンザニアの国外の、イスラーム世界に行きたいと考え、イェメンを狙っていたが、今年になってイェメンで邦人女性が拉致されたり、依然やや不穏な情勢もあるようだし、また何せ1週間以上まとまった時間が取れない状況から、ささやかに3泊4日間でザンジバルのペンバ島に行ってきた。ペンバ島に行くのは実に15年ぶりで、最近の状況を知りたかったこともあるが、10月14日のニエレレ・デーにペンバ島に居たいという一種の助平心もあった。
ペンバ島はザンジバルで、ウングジャ島(通称ザンジバル島)と並ぶ二大島で、ザンジバルの人口の約37%ほどを占める。ザンジバルでは伝統的に外貨獲得の資源は香辛料であるクローヴ(丁子)だったが、その8割以上はペンバ島で生産されていた。いはばザンジバルの経済を支えてきて、その収穫時期には多くの人手が必要で、19世紀には奴隷労働、20世紀に入ってからは季節労働者によるきつい労働によって支えられていた。しかし、1964年のザンジバル革命以降、「干された」感で、政府の投資も後回しとなり、1990年代から始まった観光開発にも大幅に乗り遅れ、道路、水道、電気といったインフラも、ウングジャ島に比べ大きな格差が存在し、若者たちは出稼ぎに行かないと暮らせない島という印象が強い。ちなみにペンバ島の人口はザンジバルの37%と書いたが、それは2002年の国勢調査の数字に基づいている。1967年のその数字は46%であり、その後43%(1978年)、41%(1988年)と確実に比率は下がってきており、ウングジャ島の人口増加と対比されよう。
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チュワカ遺跡
ペンバ島は海上貿易で栄えた島だから、船で行きたいとダルエスサラームからSepidehという船で向かうつもりだった。これは新潟鉄工所による造船であり、日本語の解説も付いている。土曜日の朝7時にダルエスサラーム港で乗り込み、途中ザンジバル港で1時間ほど停まり、ペンバ島の南端にあるムコアニ港に到着するのは12時半ころの予定であった。ペンバ島にはいくつか港があるが、もっとも大きいのはムコアニ港である。しかに2日前に切符を買いに行ったら、故障して運航しないという。そうすると、ダルエスサラーム→ザンジバルはフェリーで行き、ザンジバルを土曜日の夜に出るセレンゲティという老朽船に乗れば、夜行で日曜日の朝にウェテまで行けると言う。迷ったが、15年前と同じくチャケチャケに下りる飛行機で行くこととなった。(これは後日分かったことだが、Sephidehが運航しなかったのは、故障ではなく、給与の遅配に対し、船員たちがストライキを起こして、争議中であるためだった)
飛行機の上から見下ろすペンバ島は乾季でも緑が濃い。降り立ってみると分かるのだが、それは大自然が残されているというのではない。かなり原生林に近いのは北部のンゲジ(Ngezi)森林保護区くらいで、それも革命前はインド人が所有していた製材用の森林を自然に戻しつつあるだけだ。鳥を除いて、あまり野生動物は残っていないようだ。ペンバ島は、ウングジャ島もそうだが、人口密度が高く、島の隅々までめいっぱい開墾されている。クローヴ、ココやし、ゴムの林(プランテーション)に、マンゴー、バナナ、キャッサバ、稲が植えられている。
今回の旅の目的の中心は、ペンバ島の歴史遺跡だ。ペンバ島でちゃんと発掘調査された遺跡は4ヶ所で、北からいうと、チュワカ(Chwaka)、マタンブウェムクー(Matambwe Mkuu)、ラスムクンブー(Ras Mkumbuu)、プジーニ(Pujini)である。今回は、マタンブウェムクー以外の3ヵ所に行ってみた。皆、やしの林やバナナやキャッサバの畑が隣接しており、保存状態は悪いが、一部補修が始まっていた。
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ラスムクンブー遺跡
ペンバ島が歴史に登場するのは、紀元のころだろうか。ラスムクンブー遺跡のガイドは、沖合いの島に5世紀の遺跡があると言っていた。5世紀と言えばイスラーム以前の話である。ラスムクンブー遺跡は9世紀以降のものと言われる。『キルワ年代記』は10世紀の歴史を反映していると言われるが、ペルシアのシーラーズから船出した7艘の船の内の1艘がペンバ島に到着したと言われる。 北はソマリアから南はタンザニア南部までのスワヒリ海岸に植民された都市国家群のひとつという位置づけである。
ウェテから北へコンデへ向かう新道沿いにチュワカ遺跡はある。幹線道路をそれて細い道をたどって行くと、両脇にはキャッサバ、バナナが多く、農民が耕している。そのうちに海が見え出し、やしの林の中に遺跡はある。拍子抜けするほど小さく、かつ崩れたモスクが二つとと墓の遺跡であり、ガイド(管理人)もいない。この遺跡は18世紀モンバサのマズルーイ家の代官に当たる者の宮殿跡だと思われる。それ以前の15世紀の遺構(プジーニ遺跡の支配者の息子)もあるはずだが、叢の中で分からなかった。
チャケチャケの町から南東に20分ほど車で行ったプジーニの遺跡は保存状態がかなり悪かった。伝説ではスルタンの二人の妻を、宮殿内に別々に住まわせ、井戸に水汲みに行く時も、お互いの顔が見えないように板で隔てていた、といわれる15世紀の遺跡である。その残虐性で、ケニアやコモロなどの近隣まで悪名をとどろかせたムカメ・ドゥメ(Mkame Ndume)が、多くの人間の強制労働で築いた宮殿の跡といわれる。車を停めて歩き出すと、周囲はココやしのプランテーションで、鉄条網が張り巡らされている間の小道をたどると遺跡に着く。ほとんど草生していて、補修されている気配もない。全部見終わって帰るときに管理人と称する男が登場し、入場料を請求された。
チャケチャケの町から西へ突き出したムクンブー岬にある遺跡が、今回見た遺跡の中ではもっとも保存状態はよかった。舗装道路を15分ほど走り、ウェシャの村から未舗装道路をさらに20分ほど走り、終点の部落で車を停め、そこからマングローブやボラサスやしが生える海辺の道、塩田や養殖池を通り抜けて、炎天下、日陰のほとんどない道を20分ほど歩いて、遺跡に到達する。考古学担当のガイドと近隣の村の若者がいて、補修をしていた。 モスクと墓がまぁまぁ保存されているのだが、町の規模としては精精200~300人程度ではないか。全部の遺構が発掘されているわけではないので、確かなことはいえないが、さほど大きな都市国家ではなかったのではないかと思われる。13~14世紀の遺跡とされている。遺跡が整備され、チャケの町からボートで行けるようになると、近いし楽しいかもしれない。
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ウェテの町
現在、ペンバ島の首都になっているチャケチャケに歴史博物館がある。旧ポルトガル時代(?)、その後モンバサのマズルーイ家の支配のの砦跡のほんの一部に、小さな博物館にある。そこにヴァスコ・ダ・ガマをはじめ、歴代のザンジバルに支配者たちの肖像、写真が飾ってあるのだが、驚いたことに、独立ザンジバル政府の最初の内閣の写真があった。つまり1963年12月、スルタンを元首とする君主国としてザンジバルは独立し、そのわずか1ヵ月後の1964年1月12日に起こったザンジバル革命で、その政権は転覆し、スルタンや多くのアラブ人は亡命し、あるいは虐殺されたのだが、その転覆された内閣の閣僚の写真が飾ってあった。最後のスルタン・ジャムシッドはともかく、首相だったモハメッド・シャムテ(ZPPP)や外相だったアリ・ムフシン(ZNP)の写真は、私は初めて見た。これはペンバ島だからなのか、私が今まで無知だったからなのだろうか。余分だが、革命後のバブの写真はなかった。
私が驚いたのは、ザンジバル革命後、以前のZNP=ZPPPの歴史は抹殺されていたと信じていたからだ。ザンジバルの小学校で、歴史教育は革命後20年以上行われていなかったと思う。「反革命」とみなされた歴史は無視され、語られなかった。ペンバ島は革命後権力を握ったASP(アフロ・シラジ党)から見れば、反革命の地だから、無視され、弾圧され、放置されてきた。ウングジャ島と比べて、道路、電気、水道といったインフラが明らかに立ち遅れており、そこに意図的なサボタージュが見られる。
1993年にタンザニアに複数政党制度が再導入された際に、ザンジバルではCUF(市民統一戦線)という強力な野党が誕生した。それはCCM(革命党)政権下でザンジバル政府首相まで務めたセイフ・シャリフ・ハマドというペンバ人の希望の星を指導者にいただいた政党だった。詳細は省くが、「血で購った革命の成果を、紙=投票用紙なんかで奪い返されてたまるか」とするCCMとCUFが激しくぶつかり、CUFの強固な地盤となったペンバ島の若者たちが大勢迫害され、殺されたことは間違いない事実である。ペンバ人はいつまで我慢しないといけないのか。
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農家の庭に干してあるクローヴ
革命の前、ペンバ島でもっとも栄えた町である北部の中心地ウェテの町は寂れた感じがする。1993年、ペンバ人の友人の実家を訪ねた時も、「元々は栄えていたんだろうな」と感じたのだが、15年ぶりに訪れた今回もあまり変わっていない、時間が停滞している感じがした。土曜日の午後に着き、日曜日だったから、街中のオフィスや店もほとんどしまっていたから、余計寂しく感じたのかもしれない。月曜日の朝になって、多くの店が開いて、往来する人びとも増え、少し活気づいて見えたが、店に並んでいる品数を見るとやはりささやかである。
ウェテからさらに北にンゲジ森林保護区や、ヴマウィンビ海岸、マンタビーチ・リゾートといった観光地に向かう場合、コンデ(Konde)という町を通過するのだが、ウェテ~コンデ間の最短の旧道は状態が悪く、ほとんどのダラダラは大きく迂回して(おそらく距離は3倍近くある)新道を行く。コンデからの帰り道、運転手に頼んで、旧道を走ってもらった。かつて舗装されていたのが壊れて、いたるところで舗装がはがれている道路は非常にたちが悪い。下手すると破損している舗装の肩でタイヤが裂けるから、出来るだけ路肩を外して、未舗装部分を走る。車が消耗する。若い運転手の記憶では、小さいころからこのままの状態であったという。というとつまり革命後に直したわけはないから、植民地時代からそのまま補修されていないということなのだろう。
このコンデ~ウェテ間は、クローヴ林が続いていて、幹線道路沿いの農家の庭には、摘み終わったクローヴの実がござに載せられ天日に干してある。通り過ぎるだけで強い香りが漂う。最初緑の実が、次第に赤くなり、最後はかなり黒っぽくなる。スルタンのペンバ島での離宮もかつては存在したし、豊かな農村地域であったはずである。その地域が見捨てられているように感じられた。
今、クローヴの世界の価格は再上昇しているようだから、しっかり品質管理をし、流通を整備すれば(官僚の中間搾取を排除できれば)、ある程度の収入は確保されるのではないか。ココやしもゴムもそこそこは生けるのではないか。ウングジャ島のように観光開発に傾斜し、裸のようなイタリア人たちが街中を闊歩するだけが、開発ではないだろう。美しいさんご礁を売り物にするのはいいとして、野生動物も限られているから、やはり環境に適応した農業で自立できないものかと、無知な第三者は夢想してしまう。海草養殖も可能性あるだろうか。
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チャケの入り江
ウェテに代わって、ペンバ島の首都となったチャケチャケの町は、それなりに活気があった。ウェテの町では目抜き通り沿いの建物のオフィス、店は半分は閉まっていたが、チャケチャケの市場を中心とした繁華街の店はほとんど開いていて、また店の品数もそこそこ豊富だった。ペンバアイランドホテルとか、ペンバクローヴインといった高級ホテルも出来ていた。援助関係の外国人、おそらく本土政府から来たタンザニア人が投宿していた。
チャケチャケの町も小さいから、30分もかければ全部周れるような広さである。新しい高級ホテルから、県庁のある丘の上にあがっていく道沿いに入り江が入り込んでいて、マングローブの林が残っている。干潮時にはンガラワという漁船は陸に上がっているように見えるが、満潮になるとンガラワは船出する。魚市場も漁師用(?)のモスクも入り江にある。干潮時には魚を売り終えた漁師は、涼しいもモスクで午睡を取っている。以前から、そして今も、魚だけではなく、マングローブ材その他の物資が、入り江の奥まで入ってこられる小型のダウ船(マシュア、ンガラワ)によって行われてきたのだ。
イギリスの植民地時代の、第一次世界大戦、第二次世界大戦の時代にも「戦時統制」はあったろうし、ザンジバル革命の後の強権的な社会主義時代にも、ペンバの富であったクローヴはココやしの統制をしようとしたはずだ。その際にペンバ民衆の大いなる味方になったのは、ペンバ島を覆うさんご礁、マングローブの林だっただろうと思われる。チャケだけではなく、いたるところに入り江はあり、小舟は接岸できる。夜間のダウ船貿易を統制するのは今なお難しいだろうと思われる。ウングジャやペンバの人びとに「海の市民たち」の末裔は多いのであろう。
ペンバには3泊4日いただけで、スワヒリ語で旅行しているし、通貨も同じなのだからもちろん国内旅行なのだが、ふと外国に来ているようは錯覚に襲われたことがあった。それはどこから来ているのだろう?外国人(観光客)が少ない、アルコールが街中の最高級ホテルでも飲めない、外国人どころか地元の人が食べられるレストランがほとんどないということもある。また、小学生でも女性はスカーフをしているし、大人の女性は顔を完全に隠すヴェールをしている比率が、ダルエスサラーム、ウングジャと比べてもかなり高いということもある。ただそれよりも、時間の流れが、ダルエスサラームやウングジャとは違うということかもしれない。
10月14日、ラスムクンブー遺跡に行った際に、ガイドとして付いてくれた地元のペンバ人は、ニエレレの演説をわざわざラジオのチャンネルを変えて聞いていた。ニエレレの演説は面白いと。その時流れていたのは、「汚職の防止」と「南部アフリカ解放のための前線諸国議長としてのニエレレ」の話だった。そのガイド(30代前半か?)は、今はやや流行遅れになっている90年代のリンガラ音楽を非常に喜んでいたけど。若い世代のニエレレに対する認識がどうなのかは、分からなかった‥が。
(2008年11月1日)
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