根本 利通(ねもととしみち)
2010年7月1日に、東アフリカ共同体(EAC)共通市場が発足することになっている。2009年11月に、10周年を迎えた第2次EACで加盟5カ国の首脳によって議定書が調印されている。加盟5カ国とは原初のケニア、タンザニア、ウガンダの3カ国と、2007年に遅れて加盟したルワンダ、ブルンジである。国ごとの事情、個別事項に対する温度差はあるが、少しずつ進んでいくのだろう。少しEACの歴史を振り返ってみたい。
第1次EACは、1967年、ケニア、タンザニア、ウガンダの3カ国のそれぞれの独立の指導者で当時それぞれの大統領であったケニヤッタ、ニエレレ、オボテによって結成された。1960年のアフリカの年を契機に、アフリカ諸国が続々と独立を達成し、東アフリカでも1961年タンガニーカ、1962年ウガンダ、1963年にケニアとザンジバルというように独立が完了した。アフリカ統一機構(OAU)が1963年に設立され、アフリカの統一、アフリカ合衆国の夢が語られ、「21世紀はアフリカの世紀だ」と皆が夢と情熱をもっていた時代である。
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この第1次EACにはさらに前身のようなものがある。独立前東アフリカ4カ国はイギリスの植民地であり、それぞれに総督がいたが、1948年東アフリカ高等弁務府が発足し、ナイロビを本部として統括していた。独立日程が具体化した1961年、それは東アフリカ共同役務機構(EACSO)に衣替えされ、鉄道・港湾、郵便・通信、関税など、共通の機構をもっていた。それ以外にも東アフリカ大学、東アフリカ航空などが共通の機構として存在し、東アフリカ・シリングという共通通貨も存在した(1965年各国通貨に分離)。さらに遡ると、第1次世界大戦後、タンガニーカがドイツの植民地からイギリスの委任統治領に移行し、東アフリカ全体がイギリスの支配下に置かれた1922年から、関税同盟をもち、域内の物資の自由流通と対外共通関税を行ってきた。元々から共通市場は長い歴史をもち、存在していたのだ。ただ、東アフリカ諸国の中心として、軽工業化が比較的進んでいたケニアが有利である状況はあった。
第1次EACが解体したのは1977年だったが、その背景にはこの「ケニアが得をする」という感情があった。ウガンダにオボテをクーデターで追った(1971年)アミン政権が登場すると、オボテを亡命で受け入れたタンザニアとの間に会話が成立しなくなり、またウガンダ・ケニア間の軍事対立、ケニア・タンザニア間の政治体制の乖離など、困難な条件が増えていった。財政的困難に陥った東アフリカ航空の飛行機が全機ケニア領内にある時に、その機体を押さえるというケニアの強硬手段が、第1次EACを解体に導いた。
その後、1978~79年のタンザニアとウガンダとのカゲラ戦争、ケニア・タンザニア間の国境封鎖など、困難な時代は続いた。隣国であるのに、ケニアとは陸路では許可を取らないと往来できなくなり、流通も止まり、生活必需品(消費物資)がタンザニア国内に不足するようになった。国境の一つナマンガ経由で、ケニアから密輸品、軽工業品が流れてくるので、ダルエスサラームのアラブ系商人の多い商業区域は「ナマンガ」と通称されるようになり、現在に至るまで名を残している。
1984年に第1次EACの資産分割が終わり、完全に解体した形になったが、歴史的に密接だった東アフリカ諸国が疎遠なままであるのは、却って現実的ではない。復活の動きは水面下で進んでおり、1993年年に東アフリカ協力という形で浮上した。1996年に第1次EACの本部のあったアルーシャに東アフリカ協力機構の事務局が置かれ、1999年11月に第2次EACが正式発足。2004年3月に関税同盟が調印され、5年間かけて域内関税をゼロにしていく方向が確認されたというのが今までの流れである。
2009年11月20日、アルーシャで5カ国首脳がサインした議定書の中味を見てみよう。2010年1月に完全な関税同盟の実施(過去5年間はタンザニア、ウガンダへの優遇措置があった)、2010年7月からの共通市場の実施。2012年からの通貨同盟の実施。2015年からの政治統合(東アフリカ連邦)、というのが日程として上がっている。モデルは明らかにEUである。
共通市場が実施されると、資本、人間の移動の自由が保証される。具体的に言うと、東アフリカ5カ国の人間はこの域内であれば、どこに移動し、どこに住み着いて仕事をし、また会社を設立してもいい。本人だけでなく家族も許される。また土地の取得も可能になる。いわば「東アフリカ市民」という扱いになるわけで、1億2600万人、GNP600億ドルの共通市場(数字は2008年のもの)が出来上がるというわけだ。今でも盛んである国境間貿易がスムーズに行えるようになる。
食料の流通に大きな利点があると期待される。この地域では食料は自足できるのだが、辺境など交通の不便な地域への流通が不十分で、2000万人が飢餓状態にあるとされる。この状況を改善するのに共通市場は貢献するだろうといわれる。現在進行中の二国間の道路網の整備、そして検討されている東アフリカ全体の鉄道網の再建などが進めば、地域としての実態をもつことになるだろう。
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しかし、テクニカルな問題は多々残っている。例えば移動の自由の問題について、それを保証する文書はどうなるのか?多くの国民はパスポートをもっていない。現在、東アフリカ諸国に出かけるためには、タンザニア国民は紙の「渡航証明書」のようなものを発行してもらっている。これは簡単に取得できるようだ。EACの議定書では、身分証明書(IDカード)をもって、パスポートに代える案が提案されているが、ウガンダ、タンザニアはIDカードは現在ないし、タンザニアでは導入計画すら進んでないはずだ。また土地の取得に関しては、タンザニアは社会主義の時代から、所有権ではなく保有権の売買であるから、そう簡単には変更できないのではないか。
政治的統合に関しては、EUですらまだ長くかかりそうだが、EACも時間がかかりそうだ。まず諸国を横断するような政党は一切存在しない。というか、各国によって政党の状況は大きく異なる。民族間紛争・虐殺を経験したルワンダ、ブルンジに関しては、それぞれ10、43の政党が存在するとされるが(ブルンジに関しては今年6月の選挙で大きく整理されるだろうが)、支配政党が支持率はともかく、圧倒的である。タンザニアも政権与党のCCMが支持率も含め圧倒的である(ザンジバルを除く)。ウガンダではNRM支配下で、無党制民主主義をやってきたから、通常の複数政党制が機能していない(と思う)。ケニアも前回の総選挙で流血、国内難民を生み出したように、複数政党制がうまく機能していないし、政党は烏合離散を繰り返している。アフリカの政治で常に否定的に語られる「部族主義」の問題を克服して、政治理念による政党の対抗にはもう少し時間がかかるかもしれない。
ウガンダのムセベニ大統領は、政治統合の急進論者であるが、そのお膝元であるウガンダでも急進的な統合には懐疑論が出ているようだ。いわく「現在の論議は政治家や官僚によるジェントルマンの議論である、民衆にはほとんど、あるいは全く伝わっていない」とする。トップからボトムへ下ろす議論だと言うのだ。
タンザニアはもともと政治統合へは漸進論である。タンガニーカとザンジバルとの連合をまがりなりにも46年間維持してきた経験がそうさせるのか?あるいは1977年の経験(第1次EACの解体)が、警戒させるのか?10周年記念に際し、ダルエスサラームの市民に新聞がインタビューしたところ、「EAC10周年、そんなの知らない」「EACの共通市場ができて儲かるって言うけど、それは誰が?」というような冷めた反応が圧倒的だった。タンザニアにはSADCという南部アフリカとの紐帯も存在している。「東アフリカ人」というのが、政治家の造りだした実態のない幻なのか、しばらく行方を見つめたいと思う。
私的な興味で言うと、私は現在タンザニアで労働許可、在留許可をもっている。ケニアやウガンダに行くためにはビザが必要だし、他の国では働くことができない。もし、それが可能になると楽だなとは思うけど、外国人には適用されないだろうなと思っている。
☆参考:吉田昌夫『アフリカ現代史Ⅱー東アフリカ』(山川出版社、2000)
(2010年4月1日)
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