根本 利通(ねもととしみち)
タンザニアでは最も新しく、2006年にUNESCO世界遺産に指定されたコンドア岩壁画群を見に行ってきた。タンザニアでは7番目の世界遺産で、自然遺産(ンゴロンゴロ、セレンゲティ、セルー、キリマンジャロ)、文化遺産(キルワ、ザンジバル・ストーンタウン)に次ぐ、3番目の文化遺産である。ある人が、「途上国は文化遺産を登録したがる」と言っていたなというのを思い出す。
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1月奔流と化したドドマーコンドア道路
実は、コンドアの岩壁画を見に行くのは今回が初めてではない。遠い昔、1975年の末ごろに見に行った記憶がある。その時の思い出からいうと、「ええっ、あれが世界遺産?嘘でしょ」という感じだった。30年経って保存状態が良くなったのだろうか?まさか色彩も鮮やかにはなっていまいな…と半信半疑の気持ちで出かけたサファリだった。
まず、1975年の思い出を簡単に語ろう。当時、タンザニアの歴史を卒論に書くために半年ほど滞在していた歴史学徒であった私は、「新石器時代の壁画」として知られていたコンドアの壁画を見に行った。学生であるから、安い交通手段を使う。ダルエスサラームからタンザニア鉄道のキゴマ行き列車の3等に乗った私は、ドドマまで立ちっぱなしで参ってしまった。あまり正確な記憶はないのだが、最初はキゴマ(タンガニーカ湖畔)を目指していたのだと思う。1等、2等の寝台車両に乗れば良かったのだが、最初から経済的に3等と決めていたのか、当時バスよりも主要な交通手段であった鉄道の1等、2等の切符はかなり早くから売り切れていて、よほどのコネでもない限り入手不可能だったから諦めて、予約不要の3等の椅子席に乗ったのかもしれない。
当時は3等は指定席ではなく、目いっぱい切符を売っていた。現在は3等の椅子席でも定員があり、始発のダルエスサラーム駅ではそれは守られているはずだ。しかし、途中の駅でどんどん有料、無料の乗客が乗り込んでくるから、満員立ち席になるのだが、1975年当時はそうではなかった。始発のダルエスサラーム駅でもう超満員になるのだ。槍をもったマサイとか、生きた鶏を縛って乗ってくるおじさんとか、通路にござを敷いて座っているおばさんとか、荷棚に寝ている少年とか、とにかく真っ直ぐ立っているのがやっとな(遠慮して押されっ放しになっていると体が捻ったままになってしまう)そういう状態でダルエスサラーム駅を出発する。途中で空くかと期待しているとトンでもない。どんどん増えてきて飽和状態を超えてしまう。現在と同じで17時の出発だったからしばらくして夜になるけど、眠るわけにもいかず、夜明けにドドマに着くまで、必死になってこらえていた。若かったんだろう。
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5月乾いたドドマーコンドア道路
12時間(あるいはもう少し)で限界に達した私はドドマ駅で飛び降りる。他の駅で降りても、行く当てはないから。そこでどこ行こうかなと思いをめぐらせて、コンドアの遺跡がドドマから近いことを思い出したのだろうと思う。ちゃんと下調べをしてきたわけではないから、「ドドマの近くのコンドアという町に新石器時代の岩壁画がある」という程度の情報しかもっていなかったと思う。ドドマに朝着いたので、そのままバスに乗ってコンドアに向かった。ドドマからコンドアまでは約150km。ドドマ~アルーシャ道路という幹線道路上にある。ドドマは何せ既に「新首都」に指名され、建設が始まっていたが、その首都になった理由が、国の中央にあり、各地への道路網の拠点であるということだったが、今でもドドマ~アルーシャ道路は状態がひどい。舗装は半分も完成していない。ましてやその当時をや。
コンドアの町に着いて、町の人たちに岩壁画の在り処を尋ねるが、要領を得ない。当時ほんの片言のスワヒリ語しかしゃべれず、単に「昔の絵はどこにあるか?」と訊いていただけだろうから、町の人たちにも理解不可能だったのかもしれない。そのうち警察署に連れて行かれた。「お前は何をしているんだ?」と警官に逆に訊問される。相変わらず「昔の絵を見たい」としか言えないから、なかなか話が通じない。絵というのに「Picha」という単語を使っていたから、具合が悪かったのかもしれない。「Picha」というのは写真のことも意味する。外国人が田舎の町をうろついて、写真を撮ってスパイ行為をしているのではないかと疑われている気配。あわてて警官に「Photoではなく、Painting」と英語で説明しようとするが、警官は「ここはタンザニアだから、お前はスワヒリ語をしゃべれ」とにべもない。さすがにしばらくするとスパイ行為とは縁がないことが分かり、岩壁画は今度あの町からさらに20kmはなれたコロ(Kolo)という村にあることを教えてくれる。その晩はコンドアの町のゲストハウスに泊まったはずだ。
翌朝、バスに乗ってコロの村に着く。バス停の近くに小さな番所があるが、誰もいない。しばらくすると子どもが長老を連れてきてくれる。案内人だそうだ。おぼつかないスワヒリ語でやりとりし連れて行ってもらうことになる。近所の子どもたちもぞろぞろ付いてくる。すぐ見られると思ったけど、トンでもなかった。あやふやな記憶だが、片道たっぷり2時間は歩いただろうと思う。暑い中、へとへとになって着くと、それはあったが、「えっ、こんなもんか!」というほど感動はなかった。非常に薄く、説明されないと何の動物の絵か分からない。一応、金網で覆いはしてあるが保存状態はよくなく、後十年もすればなくなってしまうんではないかと思われた。帰り道の遠さが強い記憶に残り、岩壁画の印象はほとんどないような思い出だった。
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遺跡の近くのコロの村にある受付
その思い出の地に、今回は車で向かう。2010年1月7日、遅い正月休み。事前にドドマの知人に連絡したら「最近雨が多いから、道がどうかしら?」とやや不安な口ぶり。でも路線バスは通っているというから、大丈夫だろうと思い、でもランクルにロープを積んで出かける。途中、モロゴロ州からドドマ州への幹線道路、県名で言うとキロサ県(モロゴロ州)とコングワ県(ドドマ州)などが、緑がたっぷりでトウモロコシ、ジャガイモなどが勢いよく伸びている。ただ、ドドマ州に入ると、沿線に冠水している土地がところどころに見られる。ドドマ州というとタンザニアの中でも半乾燥地で、農業が不振な州だから、乾季にこの水がうまく使えればなぁと思いながら通り過ぎる。昨年末の大洪水で報道されたキロサ県のことはよく知っていたが、それと同じくコングワ県も洪水被害地域であったことを忘れていた。1月7日にドドマに着き、コンドアへの道路情報を集める。道は悪いが、バスは通っているから4WD(ランクル)なら行けるだろうということだった。
1月8日の朝早くドドマを発つことにする。コンドアまでは2時間半ということだが、早めに出て早めに戻る計画を立てるのが、タンザニア(アフリカ)の旅の鉄則だ。早い朝食を出してもらい、7時にはホテルを出発する。昨夜来小雨模様なのが気がかり。ドドマの町を出るとすぐに舗装は途切れる。ドドマ~アルーシャの幹線道路、アフリカ大陸をカイロからケープタウンへとつなごうとした大縦貫道路の一部でもあるのだが、雨季には名うての悪路で知られる。もう小乾季だから大丈夫だよなぁ~、こちらは整備済みのランクルだしと思いつつ進む。前方の空はどんよりと暗い雲に覆われている。そのうち、雨の降りが強くなり出し、道路の一部が水たまりから、せせらぎに変わる、ドドマ県を抜けバヒ県に入ると、さらに雨は強く道路はほとんどが小川に変わる。こうなると道路のどこが窪んでいるかわからないので、真ん中をそろそろ進む。と、前方にバスが止まっているのが見えた。近づくとその前方にトラックがスタックしている。バスはそのトラックがどかないと横をすり抜けられないが、私たちの車なら行けるよと、バスの運転手や乗客たちは無責任に勧める。行けると思うが、この調子だと、コロまでまだ2時間、行けばいいというのではなく、雨の中渋るガイドを連れ出して、滑る岩山を上り下りして写真撮影をするとなったら大事だ。夕方までにドドマに戻りつけるか?20分ほど逡巡した挙句に、空しく「撤退」と相成った。タンザニアに住んで25年、大体のことは分かっているつもりだったが、大自然の前に不覚の敗退だった。
さて、5月28日、再度の挑戦である。4月の大雨季は例年になく降りが多く、「タンザニアの大雨季は1日中降り続くことはなく、精精数時間も降れば止みますよ」と言っていたのに、まる2日間朝から夜半まで降り止まなかった日があった。5月末はもう雨季明けているから大丈夫だよなぁと思いつつ、一抹の不安があり、またドドマの知人に電話してみる。再度の敗退はなんとしても避けたい。ドドマの知人は「先週、コンドアに知人のお葬式で行って来たから大丈夫よ。ドドマは雲はあるけど、もう降っていないわよ」と請け負う。ダルエスの大雨季も、5月の中旬には明ける気配になってきて、行けそうだとなった。
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コンドア岩壁画B2
当日起きてみると雨模様。ダルエスサラームを出ると小雨、モロゴロ州に入り、ドドマ州に向う峠道を登っているころには本格的な降りになってきた。悪い予感。しかし、ドドマ州の平地に入ると、1月は冠水していたような低地も一部を除いてほとんど乾いていて、青空が広がる。その日はドドマ泊。翌29日、コンドアに向う。雲は多いが青空。1月の撤退した地点はどこだったかと見ながら行くが、ブドウ畑を過ぎ、気がつくといつの間にか通り過ぎていた。グレーダーを掛けて走りやすくなった道。途中川をいくつか渡るが、ほとんどがサンドリバー(枯れ川)。そこを掘って洗濯する人、行水する人。12月に大洪水を引き起こしたコンドア川にも水はあるものの、流れていない。コンドアに近づき、登りになり岩がちの道をどんどん進む。さらにコロまで170kmを3時間半かかった。
懐かしのコロ村と言いたいが、昔の面影は覚えてない。その昔の無人の番小屋があった場所だかどうかは分からないが、そこそこ立派に見える受付があり、その後ろにもっと立派な博物館が建っていた。受付にいたパスカルさんという30代の男性にガイドを頼む。一人Tsh3,000。 まず博物館の写真、石器などを簡単に説明してもらう。本物の壁画は不鮮明だろうからと思い、博物館の写真の写真を撮っておく(せこい)。そして2台の車に分乗して出発。コンドアから来た中学生の集団が20人くらい回りにいて、パスカルさんに訊くと「やはり壁画を見に来た」と言う。後から来た外国人にガイドをさらわれたのか?でもガイドが一人しかいないと、私たちももしその日お客さんが先に来ていたらアウトだったのだろうか?(パスカルさんはガイドはもう一人いて、その人は休暇中と言っていたが)
車で9kmのB1,B2,B3遺跡に向う。1975年に私が行った所だろうか‥歩いて2時間はかかったからな‥と思う。すぐ本道を逸れ、緑の看板の所を右折。そこからはハイキングコースのような細い道を車で進む。ぐんぐん進むと書きたいが、進めない。藪の中、くねくね曲がる岩の多い道をよろよろ進む。私の車はランクルだからいいけど、後続の車は4WDとはいえ、シティカーで車高が低いから、苦戦している。途中サンドリバーを渡るし、急坂もあるし、雨季には到底来られそうもない。1月の撤退は賢明だったと自分に言い聞かせる。道沿いは保護区だろうか、人家はないが、稀にひまわり畑がある。パスカルさんに言わせると、一耕作期だけ耕して移動して行く人たちとのことだが、近在の人たちだろう。
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コンドア岩壁画B1
車で20分くらい登っただろうか、少しだけ広くなって車を回せる地点に車を置いて、自分の足で登りだす。途中、開けた地点に出ると、マサイステップを見下ろし、逆方向には遠くにハナンの山並みが見える。10分ほど登るとB2遺跡に到着。何となく見覚えがある。金網の覆いがないので、パスカルさんに訊くと「昔はあった」ということ。35年前に来たのは、ほぼ間違いなくここだろうと思う(後で訪ねたB1、B3遺跡には記憶はなかった)。ゾウ、キリン、エランド、サイなどの動物、男、女、子どもの絵を説明してもらう。そういわれるとそうだが、本当かなと言う説明もある。でも思っていたより絵が鮮明なのは驚いた。その昔の記憶では、薄暗い金網の向こうに、不鮮明な絵があったので、今回も懐中電灯で照らさないと写真が撮れないかと思っていたが、そんなことはなかった。ふと復刻作業のようなものがなされたのだろうかと思う。
この絵を描いた人たちは、現在サンダウェだとかハッツァビと呼ばれて少数この地域に残っているコイサン語族系の狩猟採集民が有力だとされる。年代は本によっては5万年前まで遡るようだが、サンダウェの人びとは比較的最近まで狩猟採集を続けていたと言われるから、数百年前というものもあるらしい。その数百年が2~300年前だったら近すぎる。現にパスカルさんは、白い塗料を使って描かれたものは800年前と言っていた。800年前だったら日本だったらもう鎌倉時代だ。鎌倉時代の絵だとしたら、あまり価値はないかな?
野生動物の絵を描くのは狩猟採集民として、狩猟の成功の祈りとか、感謝だと解釈するのが普通だろう。あるいはその家族、氏族のトーテムのようなものであったのか、呪術的な意味があったのか、あるいは単なるいたずら描きなのか‥。そこら辺になると想像は及ばない。呪術医のような人たちがトランスになるために描いたと言う説もあるようだが、果たして?B2はかなり大きいシェルターのような庇がせり出した岩場である。でも、その後行ったB1はもっと広かった(B3は狭かった)。より大家族だったのだろうか?
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コンドア岩壁画B3
マサイ・ステップ見下ろすと気分がいいが、そのころ(例えば数千年前)になぜこんな上り下りの厳しい山の頂上近くに住んだのだろうか?火を使っていなかったから、野生動物を恐れたのだろうか?最も恐ろしい猛獣である人間の密度は低かったし、マサイもいなかったから、人間が原因ではないだろう。私は歴史学徒だが、考古学的資料を使う先史時代の人びとの暮らしがとんと想像できない。
さて、今回は「コンドアへの遠い道のり」のような話になってしまったが、コンドアの岩壁画の解説を少しだけしたいと思ったが、年代の推定が難しい。5万年前から数百年前まで。いくら同じような生活様式を維持してきたとはいえ、やはり暮らしも人びとも変わるのではないか。塗料も紅いもの(イチジクとエレファント・オイルを混ぜたものと言っていたけど?)は古く、黄色とか白とかは新しいと言う。科学的な方法で、その描かれた年代がある程度測定できると思うのだが、まだ調査する人が少なくその研究者の憶測が多いのか、説がまちまちである。あるいは私の勉強不足かもしれない。
コロ周辺に全部で186のサイトが見つかっているという。ただ、B1,B2を見る限り、数千年の風雪(雪はなかっただろうけど)に耐えてきたものなのかなと思うほど鮮明である。そこにまたアルファベットを刻むような心ない人の跡を見てしまうと、こんな奥地まで来てこういうことをする人類の末裔の叡智と遺産の保護とは何なのだろうかを考えてしまった。
(2010年6月1日)
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