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海岸部

ダルエスサラーム(Dar es Salaam)

ザンジバル (Zanzibar)

マフィア(Mafia)

バガモヨ(Bagamoyo)

キルワ (Kilwa)

ダルエスサラーム(Dar es Salaam)

☆タンザニアの首都。アラビア語で「平和の家」を意味する。

昔から漁村、船の避難港であったが、1860年代、ザンジバルのスルタンが離宮を置いたことから発展し、天然の良港であったことから、1895年、ドイツ領東アフリカの首都がバガモヨから移された。
それ以来、タンガニーカ(タンザニア)の政治、経済、工業、文化の中心地として発展してきた。ドドマに遷都することが宣言されてもう40年が経つが、ほとんどの官公庁は依然としてダルエスサラームにあり、その地位は揺るぎそうにない。地方から職を求めて、夢を求めてくる人々で膨れ上がり、現在、人口は5,383,728人( 2022年国勢調査)である。
「ダルエスサラームのいいところは、久しぶりに訪れても昔とあまり変わらないところ」とよく言われたように、社会主義時代は発展がゆっくりしていて都市の再開発も遅れ、高層ビルも少なく、夜でも町中に人が住んでいるため、ケニアのナイロビと比較すれば、比較的安全な町と言えた。90年代に入り、経済の自由化が定着すると、ビルの建設も始まり、零細な商人たちもそれぞれの幸運を目指して、活気を呈してきた。その一方で貧富の差は急速に拡大しているから、社会不安も増している。最近、朝夕だけでなく、一日中交通渋滞がひどくなっている。タンザニアでは随一の混沌、活気、贅沢、不安にあふれた大都会である。


みどころ
★国立博物館
★港・魚市場
★カリアコー市場
★村落博物館(Village Museum)
★マコンデ村
★ティンガティンガ村
★ダルエスサラーム大学

ザンジバル (Zanzibar)

☆バガモヨの対岸、ダルエスサラームの北東のインド洋上に浮かぶ2つの島、ウングジャ島、ペンバ島からなる島嶼部をザンジバルという。ザンジバルの中心地であるウングジャ島のストーンタウンは、迷路のように小道が入り組み、白い石造りの箱のような住宅が軒先を接するアラブ風の町である。住民もアラブ人とバントゥー民族の混血が多く、大陸側と容貌、衣装、習慣を異にする。住民の95%以上はムスリムであり、ラマザーン(断食月)には、昼間、町中の食堂は一斉に閉まる。

紀元前からインド洋季節風貿易の拠点として、アラブ人、ペルシア人、インド人などが来訪、定住、混血し、7世紀からはイスラム文化の影響を受け、次第にスワヒリ文化というアラブ・アフリカ文化を形成していった。
17世紀からはマスカット・オマーンのスルタンの支配を受け、インド洋の象牙、香辛料、奴隷貿易の拠点として発展した。アフリカ大陸内部からの奴隷キャラバンの終着駅であり、また奴隷労働によって丁子(グローブ)、ココヤシのプランテーションが拓かれた。現在でも「スパイス・アイランド」と呼ばれているように各種香辛料が栽培されている。
1895年からイギリスの保護領とされたが、20世紀半ばに入り、独立運動が盛んになる。その過程で、アラブ人対アフリカ人という人種対立の形を取った階級対立が先鋭化する。1963年12月に独立を達成するが、そのわずか1ヶ月後に革命が起こり、多くの人が殺され、スルタンを始めとするアラブ人たちが亡命する事態となった。その後、大陸側(タンガニーカ)と合邦し、厳しい統制政策を取ったため、経済が沈滞、人材の国外流出が続いた。 80年代後半から経済自由化が進み、観光産業が増えてきているが、1995年,2000年の総選挙をめぐって過去の対立がよみがえり、与党と野党の間で衝突があり、しばらく政情不安定であったが、現在は状況は落ち着いているかのように見える。


みどころ(ウングジャ島=ザンジバル島) 小さい写真をクリックすると大きくなります。
=市内=
★ストーン・タウン(Stone Town)
★旧奴隷市場、大聖堂(The Old Slave Market,Anglican Cathedral Church)
★驚嘆の家(House of Wonder)
★アラブ砦(Arab Fort)
★国立博物館(National Museum)
★市場(Marikiti)
★スルタンの家(People's Palace)
★19世紀のインド風建築(診療所跡、Old Dispensary)
=近郊=
★チャングー島(通称プリズン島)(Changu Island)
★チュンベ海洋公園(Chumbe Marine Park)
★マルフビ宮殿跡(Maruhubi Ruins)
=郊外=
★ペルシア風呂跡(Persian Baths)
★マンガプワニ奴隷洞窟跡(Mangapwani Slave Cave)
★ジョザニ森(Jozani Forest)
=白砂の美しい海岸=
★北海岸(ヌングウィ)
★東海岸(パジェ、ウロア、ジャンビアニ)
★西海岸
★南海岸ードルフィンツアー

バガモヨ (Bagamoyo)

☆ダルエスサラームの北方約70kmにあるバガモヨは、現在、コースト州バガモヨ県の県庁所在地で、人口数千人の漁業と農業の静かな町であったが、近年ダルエスサラームから手軽に行くことができる(日帰りが可能な)観光地として、開発が進んでいる。

ここは13世紀ころからインド洋交易の港町となっていた。郊外の カオレに小さな都市国家の遺跡がある。19世紀には、内陸(現在のコンゴ民主共和国)からの奴隷貿易キャラバン・ルートの大陸側の終着駅でここから対岸のザンジバルに船積みされた。そのため、Bwaga Moyo=「ここに我が思いを残す」という奴隷たちの嘆きが、バガモヨという地名になったという説がある(異説あり)。1890年から5年間ほど、ドイツ領東アフリカの最初の首都が置かれた。

 

みどころ
★カオレ遺跡(Kaole Ruins)
★旧税関
★ドイツ時代の役所跡
★旧キャラバン・サライ
★ローマン・カトリック教会
★バガモヨ芸術短期大学(Chuo cha Sanaa,Bagamoyo)

キルワ (Kilwa)

☆ダルエスサラームの南方約330kmにあるキルワ・マソコは、現在リンディ州キルワ県の県庁所在地で、雨季には陸上交通が途絶してしまうような不便な土地になり、眠ったような町であるが、かつては東アフリカ最大の都市国家が栄えていた。

キルワの町の起源は9世紀に遡るとされる。伝説ではペルシアのシラージのスルタンの移住を持って始まりとするが、アラブ人、ペルシア人が季節風貿易に乗ってスワヒリ(東アフリカ)海岸に到来し、一時的居留地が次第に発展して、恒常的な都市国家に成長していった。13~15世紀はそうした都市国家群がスワヒリ海岸にいくつも存在したが、キルワはその中でも最大・最強の繁栄を誇ったとされる。富の源泉は、現在のジンバブウェ地方から産出される黄金がモザンビークを通して運ばれ、西アジア方面へ輸出されるそのルートを押さえたことにあるとされる。黄金以外にも布、鼈甲、皮、奴隷などの貿易を行っていた。
当時のキルワは現在キシワニと呼ばれる小島にあったが、狭い面積に1万人以上がひしめき、モスクや宮殿を中心に下水設備の整った都市国家が存在していた様子を、1331年に訪れたアラブの旅行者イブン・バトゥータの「三大陸周遊記」は伝えている。 「キルワの町は世界の中でも最も美しく、計画だって整えられた都市の一つである。私が訪問した時のスルタンは、その人格・識見・寛容さで名高く、その法廷にはイラクやメッカ地域出身の法官がいた」
15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの回航以降のポルトガル人の到来によって、インド洋航路が寸断され、キルワもポルトガル、アラブの角逐の場となり、繁栄に陰りが見られた。
18世紀に入り、フランス領のモーリシャス植民地への奴隷需要の高まりから、奴隷貿易拠点として復活する。この時代栄えたのはキルワ・キビンジ(Kilwa Kivinje)という町である(マソコの北方26kmにある)。
 20世紀に入り、第一次世界大戦では英独対決の場となった。現在はキルワ・マソコ(Kilwa Masoko)と呼ばれるキシワニの対岸の町が外洋船の寄港地となり、県庁所在地も置かれ、行政の中心地となっている。

みどころ
ユネスコの世界遺産に指定されている。マソコの対岸のキシワニ島(Kisiwani)と、少し離れたソンゴムナラ島(Songo Mnara)に主要な遺跡は固まっている。マソコでモーターボートを借りて回ると効率がよいが、それでもキシワニだけで半日、ソンゴムナラまで足を伸ばすと1日かかる。キシワニ、ソンゴムナラへの入島料は$2。島に渡る前に、マソコの県庁の文化課で手続きをする。
★ゲレザ(Gereza)
★大モスク(Great Mosque)
★宮殿跡(Palace)
★フスニ・クブワ(Husuni Kubwa)
★フスニ・ンドゴ(Husuni Ndogo)

マフィア(Mafia)

☆ダルエスサラームから約130km南東に浮かぶ島。ココヤシと漁業の静かな島だったが、国立海洋公園があり、マリンリゾートとしての開発が始まっている。シュノーケリングで、ジンベイザメと一緒に泳ぐこともできる。

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