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Habari za Dar es Salaam No.113   "Swahili Coast, Malindi to Mombasa" ― スワヒリ海岸・マリンディからモンバサへ ―

更新日:2020年6月26日

根本 利通(ねもととしみち)

 スワヒリというとその語源からして海岸地方のことであり、スワヒリ海岸というと南部ソマリアから、ケニア、タンザニアを経て、北部モザンビークにかけた東アフリカ海岸を指す。従って、スワヒリ社会研究というと、北からラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、ダルエスサラーム、キルワなどの諸都市に住む人びとの研究が主になっている。(ただし、キルワは現在は都市とはいえない)

📷 ケニアの南部スワヒリ海岸地図©National Museum of Kenya  と言いながら、タンザニアにどっぷりと住み着いていると、なかなか隣のケニアにも出かけない。ザンジバルやキルワを見ていれば、スワヒリ文化の精髄は分かるとでもいうように。これではいけないと、久しぶりにケニアの南部海岸のモンバサとマリンディに、少しだけ出かけてきた。どのくらい久しぶりかというと、モンバサは19年ぶり、マリンディはなんと35年ぶりである。

 マリンディの町はビーチリゾートとして名高いが、私が最初に訪れた1976年、既にリゾートとしての開発が始まっていたのだろう。モンバサからラムへ陸路での移動の最中で立ち寄って1泊した。バスターミナルの近く、市場の喧騒が聞こえる安宿に泊まって、翌朝早くラムに向かったという記憶しかなく、スワヒリの都市を歩いたという実感はなかった。ただ、アザーンの声は聞いたような記憶はある。

 さて、今回案内してくれた運転手は、ふだんはモンバサ空港に降り立つイタリア人観光客を、モンバサ~マリンディ間のビーチリゾートに運ぶミニバスを運転しているという。出身がマチャコスというナイロビの東のカンバ人の地域の出身だから、ビーチリゾート以外にあまり土地勘がない。彼に言わせると、マリンディはイタリア人のための町のようだ。実際、歩いているとイタリア語の看板が出ている、レストラン、スーパーマーケットが並び、ホテルのメニューや、ガイドブックのイタリア語版が置かれていたりする(ザンジバルの東海岸のビーチリゾートにも、シーズンになるとチャーター機でやってくるイタリア人の大群が押し寄せるが)。

 マリンディは、1498年に喜望峰を回って、モザンビーク、キルワと北上して来たヴァスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル艦隊が寄航し、ここで水、食料の補給を受け、アラブ人の水先案内人マジッド(異説があるようだ)を雇って、カリカットへ向かった土地として名高い。ポルトガル艦隊はモンバサに入ろうとして敵視され、やむなくマリンディに回航したという。当時、マリンディはモンバサと敵対していたから、敵の敵は味方だったのか?しかし明らかに違う民族、キリスト教徒をそう簡単に受け入れるものだろうか?

📷 マリンディのヴァスコ・ダ・ガマ・クロス  この時代の物とされる、ヴァスコ・ダ・ガマ・クロスと呼ばれる塔が海岸に立っている。元あった場所からは移転しているという。またポルトガル時代の遺跡としては、古い質素な教会がある。門扉が閉まっていたので確認はできなかったが、実際に現在使われている気配はあまりない。門外にある説明文によれば、1542年フランシスコ・ザビエルがインドのゴアに赴く途中で、亡くなった水夫2人を葬ったとある。中国、日本への途上の出来事だ。

 マリンディには意外とイスラームの遺跡が少ない。確かにモスクの数は多いし、元奴隷市場が開かれていたというジャミア・モスクなども存在する。しかし、イスラームの町の雰囲気は希薄である。それはビーチリゾート化が進んでいるからだろうか?私たちが行った6月末はオフシーズンで、閉まっているリゾートもあったし、白人の姿も多くはなかったが、ヴァスコ・ダ・ガマ・クロスの周辺の海岸沿いの豪華な家には、退職後のイタリア人が住んでいる例も多いらしい。

 あるいは歴史的に見ると、町としての連続性がないからかもしれない。マリンディの町の起源は,依然はっきり分かっていないようだ。9世紀ころから存在していたのかどうか。15世紀に明の鄭和の数回に及ぶインド洋遠征の中で、その分遣隊がマリンディを訪れて、キリンを持ち帰ったことは確実なようだが。モンバサとの絶え間のない抗争もあった。モンバサに対抗して、ポルトガルと組んで、そのポルトガルが16世紀末には拠点を、スルタンごとモンバサに移してしまった。17世紀半ばから19世紀半ばの間は低迷する。特に17世紀後半、ソマリア南部からやってきたガラ人の攻撃・略奪を受け、ほとんど廃墟に近くなってしまったらしい。19世紀後半に、奴隷貿易、あるいは奴隷労働による農園によって生産された食料の輸出港として復活することになる。しかし、海も遠浅で、現代の港として発展する余地はないように見える。

 海岸通りに古い民家を改造したマリンディ博物館がある。歴史だけではなく、民俗的な展示もしてあるのだが、入ってまず目につくのが、シーラカンスの模製標本と説明だった。タンザニアのタンガ沖で、シーラカンスが30尾以上網にかかって、大騒ぎになったのは2003年だが、このマリンディ沖でシーラカンスが見つかったのは2001年だったと思う。サファリの後、「業界」の人にこのことを報告したら、マリンディ沖のシーラカンスは、発見されたものとしては最北限だそうで、有名なんだそうだ。しかし、調査はちゃんとされていないのだろう。その標本の展示と共にある説明は、1938年に南アで最初にシーラカンスが「発見」された話がほとんどだった。

📷 マリンディのオールドタウン  19世紀以降に成立したと思われる、マリンディのオールドタウンがある。区画としては狭いし、モンバサやザンジバルのように、曲がりくねった小路や、バルコニーをもった3階建て以上の建物が多いわけではない。ただ、ブイブイを着た女たちが通り過ぎたり、バラザで寛いでいる男たち、道で走り回る子どもたちを見かけると、あぁ…スワヒリの町だなという雰囲気はある。観光ガイドではない、イスラーム帽(コフィア)と服(カンズ)をまとった地元のおじさんが、「ここがマリンディの町の起源だ」と通りすがりの私たちに強調してくれた。町中の店の看板に「KONBUCHA」という表示があってびっくりしたが、確認はしなかった。

 ただ、スワヒリ風の町並みは本当に一角に限られていて、厚みはない。観光客が行くほとんどの場所には、自称ガイドたちがいて、マリンディ博物館でも、ゲデ遺跡でも、ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡でも、専属のようなガイドがいた。彼らは訓練されていて、それなりに知識は豊富なのだが、その土地の文化とか習俗にはそれほど深くないように感じた。名前を尋ねるとクリスチャンだし、出身を訊くと内陸部の出身が多かった。ムスリムである地元出身のガイドとは、今回は巡り合わなかった。パキスタンのガンダーラ地方やアフガニスタンのバーミヤンの仏教遺跡で、あるいはエジプトのルクソールやアブシンベル遺跡の説明をムスリムのガイドから聞いた時に何とはなく感じた違和感を思い出す。つまり、観光地で、職業、食事の種としてのガイドには、その遺跡を作り上げた人びとの思い、宗教心や暮らしぶりに対する共感とか想像力が欠けているのではないかという疑ってしまうのだ。

 マリンディから南のモンバサまで約120kmである。その海岸沿いにいくつかの遺跡がある。13~19世紀の間の、いわゆるスワヒリ都市国家の遺跡である。その中でも最大といわれるゲデ(Gede。あるいはゲディGediとも表記される)遺跡は、マリンディの南方10数kmくらいの、少し海岸から離れた場所にある。文献史料にもあまり触れられていないし、発掘されたのが比較的新しかった(20世紀半ば)ということもあり、「東アフリカのアンコールワット」なんて報道をされたこともあったようだが、そんなに大きくはない。私は35年前には知らずに通り過ぎてしまったので、今回が初めてになる。

 ガイドブックによれば、ゲデの起源は13世紀末か14世紀初め。1399年という年代の入った柱がある。マリンディの町の分派活動だという説もあるが、不確かなようだ。全盛期は15世紀半ばだろうと思われ、かなり大規模な都市だったとされる。しかし、16世紀に入り、ポルトガル登場後のマリンディとモンバサとの抗争に巻き込まれ、略奪を受け、無人化したらしい。16世紀末に再定住が行われたようだが、17世紀のガラ人の南下により、再度放棄されて廃墟になった。

📷 ゲデの遺跡 女性のガイドの案内で、遺跡の中を回る。長いこと放置されていただけあって、バオバブなどの大樹、老木が鬱蒼と茂り、心地よい木漏れ陽を処処に作り出している。サイクス・モンキーの群れが渡り、サイチョウが鳴いている。遺跡の区域はかなり広い(ガイドブックには45エーカーとなっている。18km2くらいか)。

 内壁と外壁があり、内壁の中には支配階級が居住していたのだろう。大モスク以下、いくつかのモスクがあり、スルタン一家が住んでいた宮殿部分がある。キルワ・キシワニのフスニ・クブワを小規模にした感じである。近くの大樹に、子どもたちの奨学金を出すためにNGOが作ったという展望台が作られており、曲がりくねった階段を上ると、遺跡を俯瞰することができる。

 ゲデの遺跡を凌駕するのは、規模的にいうとキルワ・キシワニ遺跡くらいしかないかもしれない。まだ今後の発掘を見ないと分からない部分もあるが、文献的にもこれ以上大きな都市は存在していなかったと思われる。キルワ遺跡を見ても、あるいか今回のゲデ遺跡を見ても、当時、この区域に1万人くらいの人口を擁し、イブン・バットゥータに「諸都市の中でも美しく整えられた町の一つ」と称された町の有様がなかなか浮かんでこない。それはアラブの血をひいた人びとの文化、暮らしをよく知らないことと共に、後背地であったアフリカ大陸の海岸部に住んでいた人たちの姿がまだおぼろげだということだろう。

 ゲデの遺跡から、キリフィの町まで約50kmほどであるが、その途中、山側(南下する場合は右側)、ある時は海側の左右に延々と約20kmくらいサイザル農園が続く。タンザニアでもサイザル農園は広大なものが多いが、ここは非常に広大だ。運転手に訊くと、「ナイロビのウィルソン空港のオーナーのものだ」という。たった一人の白人の持ち物なのか?本当だとしたら、呆れるばかりだ。ケニアではジンバブウェで起きたような、白人農園の占拠事件、つまりそれは「植民地の負の遺産の精算」という発想なのだが、それは起きなかったのか?

📷 ムナラニの遺跡  このキリフィからモンバサへ南下する幹線道路の海側には、びっしりとビーリリゾートが並んでいる。超高級から一般的なところまで多様なのだろうけど、ほとんどが高級そうに見え、一般のケニア人が泳ぐ公共のビーチとか、漁師が出帆する区域は残っているのだろうかと心配になる。遺跡には興味がなかった運転手は、このホテルは誰それの持ち物という風に教えてくれる。ケニア独立以来の指導者、政府高官の名前がいくつも挙がる。民衆の風評というものは、必ずしも正確ではないだろうが、それにしても典型的な新植民地主義的状況のように思える。

 1967年のアルーシャ宣言から社会主義路線を行ったタンザニアと違い、ケニアは独立後から典型的な資本主義的発展、欧米の外資の導入をベースとしたそれを選択した。タンザニアの貧しくとも、民衆の教育の重視と格差の少ない社会を目指すニエレレの理念に惹かれて、私はタンザニアに住み着き、平和な生活の中での、ゆっくりでも着実は発展を期待していた。今、タンザニアは毎日の計画停電で、製造業に大きな負担をかけつつ、民衆の生活にも困難を来たしている。私たちの運転手にタンザニアの計画停電のことを言うと、「ケニアは進んでいるから、そんなことは起きない。起きたら、国中が黙っていない」という答えだった。「ケニアの方が進んでいる」という信仰は措くとしても、タンザニアで今起こっている電力問題は明らかに人災だろうし、タンザニアの民衆はおとなしすぎるのではないか、もっと責任を追及すべきなのではないかと感じる。野党の議員が追及しているが、さて、それで数人の政治家が責任をとって辞職するのはいいとして、解決する処方箋、行程が見えてこないというのは、日本の原発問題と同じだろうか。

 ゲデから南下し、キリフィという町の入り江の橋を渡ったところに、ムナラニ遺跡がある。比較的新しく発掘された遺跡で、地図によっては載っていないし、土地の人たちにもあまり知られていないようだ。幹線道路に大きなケニア博物館協会(NMK)の看板が出ていたので、その矢印に沿って脇道に入ったのだが、見つからない。小さな町になっていて、道行く明らかに地元の人複数に訊いても、分からないのだ。実はその遺跡のすぐ隣にヘビ園があり、そっちの方が有名で、そちらを尋ねてやっとたどりつけた。

 ムナラニ遺跡も、鬱蒼と茂った林の中にあり、近在の人びとの信仰の対象であるバオバブの巨木があり、その洞の中に、お供えをするという。この近在の人たちはムスリムのはずだが、イスラーム信仰と祖先崇拝のようなものを、どう共存させているのだろうか?ムナラニ遺跡そのものはまだ発掘があまり進んでおらず、全容は分かっていない。ただ、その名前の元であるムナラ(柱塔)は立派なものである。13~16世紀の都市国家遺跡と言われたが、海から入り江の突端に立つこの柱塔を、いわば灯台のように目標にして、航海してきたのだろうか。ただここの柱塔は時代は新しいように感じた。

 案内してくれたのは、実は遺跡の管理人ではなく、ヘビ園の方の管理人の人だった。遺跡の管理人の方は「昼食に行っているんだろう」ということだったが、1時間経っても帰ってこなかった。おそらく滅多に来ない訪問客を待っていることはあまりないのではないかと想像させる。私たちの運転手は遺跡よりもヘビ園の方を楽しんでいた。

📷 ジュンバ・ラ・ムトワナの遺跡 1976年の思い出である。モンバサからマリンディへ向かうバスに乗った私は、キリフィの入り江でフェリーに乗った。バスや車も乗せるフェリーである。もし私の記憶に誤りがなければ、そのフェリーは手動式だった。両岸に綱を張り、その綱を乗客たちが引っ張って移動する方式のやつである(タンザニアでもバガモヨから北へワミ川を渡るフェリーがかつてそうだった)。さすがにそれは古~い話で、1980年代には日本の援助で立派な橋が架けられた。現在も使われている。しかし、橋梁のどこかにひびが入っているらしく、近い内に建設した日本企業が架けなおすという。その際には、また臨時のフェリーが使われるはずだと、そのエビ園の管理人は言うが、どうだろうか?仮設橋になるのじゃないかなと、昔フェリーで渡った旧道を上から眺めながら思った。

 ムナラニ遺跡から南下し、ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡を目指す。運転手はもちろん知らない。街道にある看板を見つけ、そこから3kmというのを頼りにラフロードに入る。たどり着くと、ムナラニ遺跡よりは発掘された区域が広く、小さな展示室も、管理人もガイドもいた。ゲデのように鬱蒼とした樹木の中に、遺跡を囲む外壁が続いている。モスク跡、住居跡、柱塔跡などが広がっている。ここの特色は、本当に浜辺まで遺跡が広がっていて、大モスクは浜辺にあるということだ。従って、保存状態もいいとはいえない。

 ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡は、モンバサのすぐ北のムトワパという町にある。そこで混乱したのだが、ムトワパ遺跡というのもあるようだ。今回は、ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡の方にしか行かなかったから、未確認ではあるが、地図で見ると、ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡のすぐそばにある。

 モンバサの街に近づくと交通渋滞が始まる。長距離トラック、近距離バス(マタトゥ)、三輪タクシー(トゥクトゥク)が騒音、煤煙をまき散らかしながら走っている。最後には、泊まるホテルの直前の渋滞で、私たちの乗っていた車がトゥクトゥクにこすられて止まった。都会に帰ってきたということである。

☆参照文献: A.I.Salim"Swahili Speaking Peoples of Kenya's Coast"(East African Publishing House,1973)  E.B.Martin"Malindi-Past and Present"(National Museum of Kenya,1970/2009) J.Kirkman"Gedi"(National Museum of Kenya,1975) H.Kiriama,M-P.Ballarin,J.Katana & P.Abungu"Discovering the Kenyan Coast"(National Museum of Kenya,2008)  高橋英彦『東アフリカ歴史紀行』(NHKブックス、1986)

ケニア情報は、下記にもあります。 ケニア

(2011年9月1日)

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