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読書ノート No.102   松﨑一平『アウグスティヌス「告白」』

根本 利通(ねもととしみち)

 松﨑一平『アウグスティヌス「告白」-〈わたし〉を語ること…』書物誕生-あたらしい古典入門 (岩波書店、2009年) 

📷  本書の目次は次のようになっている。   プロローグ   第Ⅰ部 書物の旅路 あたらしい叙事詩か?    第一章 どのような書物か    第二章 書かれた時期と背景    第三章 なぜ、だれにむけて書かれたのか    第四章 『告白』の読者たち   第Ⅱ部 作品世界を読む 愛にむすばれた社会をめざして    第一章 神と人間-創造、原罪、救済    第二章 幼年時代と少年時代    第三章 梨を盗む    第四章 『ホルテンシウス』体験とマニ教徒時代    第五章 友との日々-回心    第六章 母との日々-見神    第七章 第十巻と「聖書について」の三巻-真理   エピローグ

 まずプロローグで『告白』の特色を簡明に説明している。  「1600年ほどまえに書かれたにもかかわらず、…書かれた時期や状況がよくわかっている。著者自身のコメントも残っている。それでも、どのような意図で、だれにむけて書かれたのか、かならずしも定まった理解はない」(P.1)。  「古代の書物は、音読で享受されるのがふつうだった。…これらが叙事詩のつねであるなら、『告白』は、まさしくそのように書かれている」(P.3~4)。  「『告白』は著者にかかわる悪と善について神を讃えており、人間の知性と感情を神にむけてかきたてているという。…『告白』は読者や聴衆ばかりでなく、大いに著者自身のために書かれたのだ」(P.5~6)。  これを手掛かりに読みだそう。

 第Ⅰ部は本書の背景、内容の解説になっている。成立したのは397~400年説が有力で、パピルスにかわって羊皮紙が一般的になりつつあった時代というのがすごい。アウグスティヌスは354年タガステで生まれで、430年ヒッポ・レギウスで死んだ。最初、修辞学の勉強をし、その教師となる。青年時代はマニ教徒であった。386年キリスト教徒に回心し、その後ヒッポのカトリック教会の司教として、多くの著作を発表した。この『告白』はその代表作として知られている。

 アウグスティヌスが生活した地域は、当時の西ローマ帝国であるが、ゲルマン民族の侵入を受け、衰亡に向かう時代である。カトリック教会は有力ではあったが、絶対ではなかった。著者はこの『告白』をローマの建国神話である『アエネイス』と比較して次のように述べている。「キリスト教が広がるまえのローマ帝国で『アエネイス』が果たしていた役割を、キリスト教が普遍的になりつつあった社会で果たすべく、ヒッポのカトリック教会の司教によって構想された著作だったのではないか。…キリスト教が理想とする…社会にひとびとを呼び寄せるための新しい叙事詩ではなかったのか。…英雄たちにしてはじめて可能だと考えられていた劇的な生き方と等質の生を、つつましいひとびとのなかに見いだした…『アエネイス』の、いわば非神話化の試みではなかったのか」(P.81~2)。

 第Ⅱ部ではアウグスティヌスの心の遍歴(漂流)を追う。漂流というのは『アエネイス』と重ねているからでもあろうが、アウグスティヌスの文章に「荒波さわぐ人間の社会にのりだす」という表現があるという。学校に行き出し、ラテン語、ギリシア語、算数を学び出す。ここで疑問に思ったのは、アウグスティヌスの母語は何語だったのだろう、何語で考えていたのだろうということである。父は市参事会員だったということだからローマ市民だったのだろう。母は?少年は学習を怠け、教師に笞で打たれ、神に祈った。信仰に役立つものは善だから、聖書を読めるようになる勉強を怠けたのは罪だろう。では笞打った教師たちは親の意向を受けて、出世のために勉強を強制した。この時代の学校の勉強の意味、そして受けた子どもたちはどういう存在だったのか。

📷  少年は13~14歳のころ、『アエネイス』の悲恋に夢中になる。ことばを学ぶための有効な教材としての古典文学を、アウグスティヌスは回顧して倫理性から批判する。しかし少年は教師から「エウゲ、エウゲ」と褒められて進む。この「エウゲ、エウゲ」というはやし言葉は、本書のなかで何回も登場する。「でかしたぞ、やれやれ」とか「えらい、えらい」とか訳されていて、この時代の一つのキイワードのようにも思える。青年時代に入った15~16歳のころ、性に目覚め、また「真夜中の梨盗み」事件を起こす。仲間と組んで起こしたこの事件は、いはば「若気の過ち」だろうが、アウグスティヌスは神から遠ざかっていたとし、著者は真夜中の闇と光の対比を考える。

 371年、カルタゴで修辞学を学ぶが、そこで同棲、翌年息子が生まれる。悲劇に熱中する。373年、キケロの対話編『ホルテンシウス』を学び、哲学探究熱が高まり、聖書を手に取り、マニ教にひかれた。タガステに帰郷して教師をしながら、マニ教徒として活動し、母とは不和になったという。この時代(26,27歳ころ)処女作を書き、当時人気だった弁論家に献呈する。もてはやされたいと思ったのだろう。

 384年ころ、ローマ経由でミラノで修辞学教師を務めているころ、カトリック教会の司教アンブロシウスの説教に出会う。このころのアウグスティヌスは、哲学的探求への熱意と出世への野心のはざまでゆれていたという。出世のためにある少女と婚約し、息子の母とは離別する。386年夏、アウグスティヌスは回心に至るのだが、頭ではカトリック教会の教えの正しさを理解していたが、最後までてこずったのは肉欲の習慣だったという。アウグスティヌスの回心は、同居していた親友アリピウス、ネブリディウスの回心にも及んだ。アリピウスがてこずったのは見世物(剣闘技)だったという。

 第Ⅱ部第六章は、母モニカの回想である。息子がマニ教徒になってしまい、同居を拒んだ母は「定規の夢」を見る。この解釈で母と息子はまた対立することになるのだが、最終的には息子が回心して、二人一緒にオスティア(地名)で神を見ることで、めでたしとなる。著者は「アウグスティヌスは、成長というひとの漂流に、近しいひとびとの信頼が不可欠と考えているのではないか」(P.197)という。それはともかく私としては、モニカが少女時代にワイン運搬係をしていて飲酒癖に陥ったとか、遊学する息子に人妻と姦通してはいけないと忠告するなどのエピソードの方が楽しい。

 第七章はちょっと歯が立たない。第十巻は司教であるアウグスティヌスが「いま告白する」ということだし、第十一~十三巻は真理とはなにか、幸福の生とはなにかとか、キリスト教の教義に深く入って行ってしまう。「いったい真理というとき、アウグスティヌスは具体的になにを考えているのか。それは、つまるところ、創造の事実と人間の救済の事実だ」(P.226)となるともはやお手上げである。

 中世の西洋キリスト教哲学というのは普段の私の興味からは最も遠い分野であったが、ひょんなきっかけで本書を読むことになった。哲学的思考というのには程遠い自分だが、帯に書かれている「名もなき、つつましく生きるひとびとが織りなす『叙事詩』の誕生」という惹句を見て、「叙事詩」ならと読みだした。

 正直、アウグスティヌスの『告白』については、受験生時代の世界史の知識しかない。また背景であるローマ帝国やキリスト教に関しても同断である。夜、ベッドに入って、数ページめくって眠りにつくという横着で時間のかかる読み方であった。なかなか頭に入らないので、2015年のクリスマスに絡んで4連休になったので、そこで集中して読んで、ほんの少しだけわかったかなという程度である。その後に、少しだけ(新書本2冊)を追加で読んで、最近の研究の成果を覗いただけである。

📷 アウグスティヌス像  キリスト教ということについてである。本書で描かれているキリスト教はもちろんローマン・カトリックであるが、中世の確固とした体制そのものであるそれではなく、ほかの宗派(アリウス派、ドナトゥス派など)やマニ教などのほかの宗教も併存している状況である。キリスト教の迫害も終わり、寛容令(ミラノ勅令、313年)も出て、ニカイア公会議でアタナシウス派が正統の教義とされ(325年)、ローマ帝国の国教(392年)になろうとする時代である。そこでのキリスト教信者はどういう人たちだったのだろうか?

 普通言われているのは下層民を中心として広まったということだが、多神教の世界であったギリシア・ローマに、パレスティナ起源という外来のかつ不寛容であったろう一神教のキリスト教がなぜ広まっていったのか。これは支配者の道具としてのキリスト教ではなく、抵抗の核としてのキリスト教だったのだろう。私が考えてしまうのは、日本の隠れキリシタンとの比較である。17世紀初めにあれだけ弾圧され、島原・天草の乱では戦う民衆の心の拠り所となり、乱鎮圧以降はほとんど死に絶えたと思われていたのに明治維新になって出現したのはなぜかということである。

 本書の舞台となっているのは当時のアフリカ、現在のマグレブ地方のチュニジアやアルジェリアである。アウグスティヌスの生まれ故郷であるタガステというのは現在のアルジェリア東部らしい。そこからカルタゴに遊学に行ったり、ローマ経由で西ローマ帝国の首都であったミラノで教師をしたりと、その当時の(西)ローマ帝国の支配下にあった古代地中海世界の現実が浮かび上がってくる。

 ローマ帝国というのは奴隷制に支えられた国家であったとされる。その市民、知識階級は富や出世、あるいは知的な真理探究を目指したかもしれないが、下層民あるいは解放奴隷や奴隷たちにとってはそんなものは縁がなかった。何を求めてキリスト教にすがったのだろうか。アウグスティヌスのような心の遍歴でキリスト教徒になった人が多数だとは思えないのだ、というような関心は著者には興味がないのかもしれない。

 南川高志著『新・ローマ帝国衰亡史』によれば、ローマ帝国は身分制社会で、頂点に皇帝がいて、その下に元老院議員身分、騎士身分、都市参事会員身分というのがいて、5,000万から8,000万人(ずいぶん差がある!)と推定される帝国全人口に対して、これらの上層階級人口は13万人程度と0.2~0.3%というごくごく一握りの数でしかない。アウグスティヌスの父は市参事会員であったということだから、少数の特権階級の共同体の話なのだろう。「名もなき、つつましく生きるひとびとが織りなす…」とは距離があるのではないか。もちろん、アウグスティヌスが生きた4世紀後半~5世紀前半は、下層民から軍人を経てのし上がったり、祖先がローマ人以外の皇帝も生まれたようだから、ローマ人という範疇、意識の柔軟性、多様性はあったのだろう。376年に始まったといわれる「ゲルマン民族の大移動」(これには最近批判もあるようだが)の波のなかで、ヴァンダル人が北アフリカに侵入し、カルタゴを攻略する直前にアウグスティヌスは没するという時代はどう精神・意識に影響したのだろうか。

 石川明人著『キリスト教と戦争』というのをたまたま読んだ。副題が「『愛と平和』を説きつつ戦う論理」というなかなか挑発的なものだ。キリスト教は十字軍と限らず、神の名において戦争を起こしてきたことは数限りなくある。「戦争を正当化する思想、あるいは、戦争が容認されるとするならばその根拠や条件は何かについて議論するものを、一般に『正戦論』という」(P.138~9)のだそうだが、そのキリスト教的正戦論の元祖が、アウグスティヌスに洗礼を授けたミラノ司教アンブロシウスであり、その理論化はアウグスティヌスにより始められ、完成させたのは13世紀のトマス・アクィナスだという。アウグスティヌスが戦争について議論したのはほかの著作であって『告白』ではないのだろう。ただまだ宗派間の競合相手の多かったカトリック(アタナシウス派)の司教として、優しい眼差しだけではありえず、声高に戦闘的な論争をすることもあったのだろうか。

 本書は、著者が30年以上続けてきたアウグスティヌスとの対話の記録であろう。エピローグに著者はこう書いている。「『告白』のアウグスティヌスは、対話しながら日々をともにする、私のたいせつな人生の先輩だ」と。生意気盛りの20代前半でアウグスティヌスと出会って、著者はどういう対話を続けてきたのだろうか、回心したのだろうかという野次馬的覗き見のような関心で読んでみたが、歯が立たなかった。私自身の「真理」「神」への興味のなさからなのだろが、アウグスティヌスのいう言葉がすんなり頭に入らなかったのだ。またプロローグに書かれているように音読で訴えかける叙事詩だとするなら、想像力が足りないのだろう。大部の『告白』に立ち向かう気力もないので、ここらへんでお茶を濁すことにするが、書評はおろか、紹介にも満たない感想文で終わってしまい、著者には失礼なことになったかもしれない。

☆挿絵・地図は本書のなかから。 

☆参照文献:  ・南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書、2013年)  ・石川明人『キリスト教と戦争』(中公新書、2016年)

(2016年2月15日)

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