根本 利通(ねもととしみち)
伊高浩昭『チェ・ゲバラ―旅、キューバ革命、ボリビア』(中公新書、2015年)
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本書の目次は次のようになっている。
まえがき
第1章 目覚めの旅へ
第2章 運命の出会い
第3章 キューバ革命戦争
第4章 革命政権の試行錯誤
第5章 ヒロン浜の勝利
第6章 ミサイル危機と経済停滞
第7章 「出キューバ」へ
第8章 コンゴ遠征
第9章 ボリビア
あとがき
第1章では若きエルネスト・ゲバラ=デラセルナの旅を描く。ブエノスアイレス大学医学部の学生、23歳の時、親友のアルベルトとバイクで出かけ、途中からヒッチ、徒歩の約7か月の南米旅行をした。チリ、ペルー、コロンビア、ベネズエラと回り、帰途米国のマイアミ経由に寄った。有産階級の出身であったゲバラは、この旅で先住民に出会う。「物憂げなインディオは、劣っているために戦いに敗れたのだから、隷属するしかないと5世紀にわたって教え込まれてきた。彼らは心の痛みを酒とコカという二つの薬で癒している。無礼な扱いや蔑まれることに慣れきっており…」(P.12)。そして 「アメリカ大陸の国境線は虚構だ。ラテンアメリカ人は単一の混血人だ」(P.14)と思う。
第2章では、大学を卒業した1953年の旅立ちを描く。農地改革を目指すボリビア革命を見ながら「この革命は、孤立したインディオの心を揺さぶることが出来なければ失敗する」(P.21)と感じる。ペルー、エクアドル、パナマとたどり、国軍を廃止したコスタリカから中米を北上し、グアテマラに入国する。当時「グアテマラの春」と呼ばれる進歩主義政権下で、農地改革が行われていたが、1954年6月CIAが仕立てた反乱軍が侵攻し、政権が転覆されるのを目の当たりにして、メキシコに逃げる。メキシコでイルダ・ガデアというペルー人女性と結婚し、娘をもうける。そして、前年モンカーダ兵営襲撃事件から逮捕・釈放されて亡命していたフィデル・カストロと出会うことになる。
フィデルはラテンアメリカ全体が祖国であるような構想力を持ち、「私は彼の楽観主義を分けてもらった」とゲバラは語る。メキシコでフィデルが始めたゲリラ訓練にゲバラも参加し、メキシコ警察に逮捕される。釈放後、1956年11月25日に出航したグランマ号の82人の一人としてゲバラは乗り込む。著者はいう。「チェは大きな旅を経て人生目標に辿り着いた。旅は若者を変身させる。個人主義的アルゼンチン人医師エルネストは、愛他的なラテンアメリカ人革命家チェに変身した。言い換えれば、人間の病気を治す医師から、社会の病根を断ち切る革命家へと転じたのだ」(P.44)。作家に転じた魯迅との違いは時代、それとも米国の巨大な影だったのだろうか。
第3章では、キューバ革命戦争の成功を描き出す。最もゲバラが輝いていた時であろう。グランマ号の到着が遅れ、都市部の蜂起と合わずに弾圧され、上陸した部隊も待ち伏せに遭い、半分以上の犠牲者を出し、12月21日にマエストラ山脈再結集した時はわずか21人、それからグアヒーロと呼ばれる貧農と合流し、反乱軍が出来上がった。フィデルは「これで革命は勝利する」と言い切り、弟ラウールは「フィデルの最も重要な性格は敗北を認めないことだ」と後年述懐している。このフィデルとゲバラの性格の違いである。革命戦争の最中にスクープに成功した『ニューヨーク・タイムズ』のハーバート・マシューズは「チェはフィデルよりはるかに自分の周りを壁で囲み、ごく親しい人しか入っていけない人間だった」(P.57)と語っている。またウルグアイの特派員グティエレスは「チェには自分だけの領域があり、そこに跳ね橋を架けている」と描いた。この時期(1958年3月)、アルゼンチンのジャーナリストであるマセッティのインタビューを受けたことが、「ゲバラ神話」の始まりとなったという。そのインタビューでゲバラは「私の祖国はラテンアメリカ全体だ」「フィデルは共産主義者ではない。民族主義の革命家だ」と述べている。
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アルベルトとの筏マンボ・タンゴ号の旅(1952年)
第4章以降、第6章までは、武力革命の後の国家建設と防衛、その中で社会主義路線に傾いていく様子を描いている。1959年1月1日、バティスタは大金をもって逃亡し、革命軍が勝利する。ゲバラは1月2日ハバナに入城し、要塞を占拠する。その翌日、内外のマスコミの取材に対し、「私は…自由を愛するものにすぎない。私は医者としてキューバにやってきた。この国に悪性腫瘍があったから、その除去を手伝ったまでだ。…革命に祖国はない。次はニカラグア、ドミニカ共和国、パラグアイだろうか」(p.84)と語った。だいたい当初からフィデルやゲバラが共産主義者だったとは到底思えない。反米自由主義、民族主義者の集まりが「7月26日運動」で、革命軍には強固な反共分子が存在した。ゲバラは1959年6月~9月に長期の外遊をするが、会ったのはナセル、ネルー、スカルノ、ティトーといったバンドン会議・非同盟・第三世界路線の指導者が多い。日本にも砂糖の売り込みに立ち寄り、通訳に小松左京が出たこともあるという。しかし、米国のアイゼンハワー政権による米国の既得権益を守ろうとする敵視政策は、革命政権を追い込んでいき、「第一次農地改革」(1959年5月)、「社会主義革命宣言」(1961年4月)となっていく。
第5章は米国の送り込んだ反革命軍の侵略を撃退する。アイゼンハワー政権はCIAにキューバの革命政権に対する破壊活動、反革命勢力支援、フィデル暗殺計画を指示する。アイゼンハワーの後継者がケネディではなくてニクソンだったら、歴史は変わっただろうか。1960年3月、CIAの犯行でハバナ港クーブル号事件が起こり、81人が亡くなった。その葬儀でフィデルの弔辞で「祖国か死か」「勝利するのだ」が始まり、アルベルト・コルダによるゲバラの有名な写真が撮られる。この時期、サルトルとボーヴォワール夫妻が訪問しており、「私たちは人生で初めて、暴力によって獲得された幸福を目撃した」とボーヴォワールは記し、ゲバラは「キューバ革命は米国の侵略に対抗することで自らを確立した…米国が存在しなかったら、キューバ革命はおそらく米国を発明しただろう。この革命に清新さと独自性を維持させているのは米国だ」(P.133)と語った。米国はアメリカ諸国を説いてキューバの孤立化を図り、キューバは米国企業を国有化することで応えた。そして、1961年4月の反革命キューバ人1,600人によるヒロン浜侵攻事件が起こるが、3日間で侵攻軍は完敗し、ケネディは米軍を投入しなかった。民兵を培ったフィデル、ゲバラたちの勝利であった。
第6章では、反革命軍の侵攻には勝利したものの、経済建設がうまくいかないキューバの姿を描く。ゲバラは中央銀行総裁とか工業相とか、経済建設の要職を歴任して、慣れない経済の勉強をして苦闘する。そして、「労働は喜び」という精神主義のような姿勢で、「赤い日曜日」といった自発的労働を国民に促す。しかし労働者過剰から生産性の低下、配給制が導入される。著者は「チェは熱帯キューバに並外れた努力を求めたのだが、熱帯ではチェのような頑張り過ぎは異常なのだ」とコメントするが妥当かどうか。ソ連・東欧圏の製品の質や生産性の低さも明らかになり、社会主義に対する疑問も目覚める。1962年10月のミサイル危機を乗り越えて、ケネディ、フルシチョフは平和共存路線に向かうのだが、それがゲバラに「ゲリラ戦争と革命闘争を大陸規模に拡げること、革命キューバにいつまでも留まっていられない」という傾斜を引き起こす。
第7章では、米国の経済制裁のため経済は停滞し、米ソ平和共存路線のため政治的にも困難な中、ゲバラはキューバの中での居場所を失い、ラテンアメリカ、そして世界同時革命への道を歩みだす。1964年12月の国連演説では、「植民地主義に最期の時が来た。…北米帝国主義…大国間だけの平和共存などありえない」「社会主義陣営内で搾取者と被搾取者が形成されるならば…」とソ連を批判し、「しかるべき時が来たら私はラテンアメリカのある国の解放のために自らの命を差し出す用意ができている」と訴える。アフリカではアルジェリアのベンベラ、ギニア・ビサウのアミルカル・カブラル、タンザニアのニエレレと出会う。1965年2月、アルジェのアジア・アフリカ連帯機構で、「解放の道を歩み始めた国の開発には社会主義諸国の犠牲が必要だ」と、現在行われている貿易形態を互恵貿易ではないと否定し、「社会主義国は帝国主義的搾取の共犯者だと確信せざるをえない」とソ連の激怒をかう演説をぶつ。そして、フランツ・ファノンの影響を受けたと思われる「新しい人間」という概念を述べ、「人間は他人を理解しなればならない。…その人が苦しんでいるときに、苦しみを分かち合える人間でなければならない。連帯できなければならない。新しい人間になれということは、他人にとって有用な人間になれということと通じる」(P.212)と述べ、キューバに別れを告げ、コンゴ、ボリビアへ旅立つのである。
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2番目の妻アレイダとの新婚旅行(1959年)
第8章は悲惨な7か月のコンゴでの戦いとその敗北・撤退を描く。著者は、米国も南米諸国の軍部もチェが動くのを手ぐすね引いて待っていた。チェが米ソ平和共存路線に歯向かうキューバ路線を国外で展開することで、キューバは「革命の操」を辛くも守っていると非同盟、「第三世界」に印象づけることができる。チェはキューバを去ることによって、フィデルの声望を高める新たな役割を担った、という。ゲバラは 「私は勝利するまでキューバに戻らない。だがいつも私の心には〈祖国か死か、勝利するのだ〉の標語がある」という第一義的には「遺書」に当たる「別れの手紙をフィデルに宛てて残し、4月2日ハバナ発を発った。この「別れの手紙」が後日、フィデルによって最後の文章を改ざんされて公表されたというのが著者の解釈である。
コンゴでの戦いは思うようにいかない。「ダワ」信仰というマジマジ信仰のような迷信にとらわれ、「EPLは指導者が不在、規律がなく、兵士に犠牲的精神がない。寄生虫だ。働かず、訓練せず、戦わず、村人に供給と労務を求めている」とゲバラは非難する。著者は歴史と風土に根差す民族的気質の違いが大きすぎるとする。結局、アフリカ統一機構などの要請に従って、ゲバラ軍は撤退する。ゲバラはフィデルによって改ざんされた「別れの手紙」の公表をキューバ共産党による「チェとの絶縁」と受け止め、永遠の別れ。自分は帰ってほしくない厄介者、異邦人と感じ、深い孤独に沈んだという。
第9章は最後のボリビアでのゲリラ闘争とゲバラの死までを描いている。著者はボリビア行は、準備不足のうえ逆境が重なって、失敗が最初から運命づけられていたようなものだった、チェは覚悟して死地に赴いたという。ゲバラの山地・農民重点主義で、都市労働者の軽視。ソ連派ボリビア共産党との決裂。当時のボリビア軍政権のバリエントス大統領が先住民の言語を話し、農民の支持を固めていたことなど。米国のCIAの軍政支援活動だけでなく、ソ連からもフィデルに圧力がかかっていたなど、孤立無援ではないがマイナス要因が多かった。「ゲリラ戦は人民戦争だ。」とするなら、その人民との意思疎通を図ることができなかったと著者はいう。「私は打ち解けにくく、フィデルにあるような意思伝達の能力に欠けている。私はつい黙してしまうのだ」とゲバラも自覚する政治力のなさ。1967年10月8日、ラ・イゲーラ村で銃撃戦で負傷したゲバラは捕虜になり、翌日、裁判なしに銃殺された。
私が大学に入った年(1972年)には、ゲバラはあまりにも有名な「革命家」であったし、その若くしての死は英雄化されていた。だからというか、あまり近寄らなかった。自分の関心の対象がアフリカであったこともあるが、またしばらくしてゲバラがコンゴで戦ったことや、アフリカでも圧倒的に人気があることも知ったのだが、彼の伝記や日記、三好徹や太田昌国の作品も読まなかった。ニカラグアの革命も対岸視していた。視野が狭かったのだろう。
ダルエスサラームに1984年から住みだすと、コンゴ(当時はザイール)人の亡命者は多くいた。ダルエスサラーム大学の歴史学科の先生で、フランス語なまりの聞き取りにくい英語で教えていただいた方もその一人だった。その先生はがちがちのマルクス主義者であると思われた。旧ルムンバ派というか、ゲバラが支援した解放人民軍の指導者であるローラン・カビラの金と女に関わるろくでもない噂もたくさん聞いた。しかし、そのカビラが1997年のどさくさに紛れてコンゴの大統領になってしまい、護衛に暗殺されたかと思ってホッとしたのもつかの間、その息子が世襲で大統領に収まっているのを見ると、ゲバラもあの世で浮かばれまいと日本人的発想を持ってしまった。でも、これはゲバラが書いたカビラへの強烈な反感が流布したためだろうか。
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自発的労働の模範を示すチェ(1960年代前半)
第9章の冒頭にボリビアのラパスに降り立ったゲバラの心境を、ハーバート・マシューズは次のように描いている。「異教徒を改宗させるため未開の土地に分け入る伝道者のような激烈かつ深い使命感を覚えていた」(P.246)。これは本当にチェの心境だったのだろうか、あるいは米国人の発想?もしチェがそういう感覚を持っていたら、コンゴで受け入れられなかったのも当然か。リヴィングストンじゃあるまいし、白人の宣教師の感覚だったとは思えないのだが。ゲバラが白人だったから反感を持たれたというだけではないことになるが、これは要点検だろう。
2歳で喘息を発症し、その後、薬が手放せなくなる。ゲリラ戦の戦場でも常に悩まされる姿が描かれる。健康ではなかったがゆえに、生き急いだのだろうか。長女のイルダ誕生したのは1956年で、ゲバラはまだ27歳。その時に、「私には人生を引き継いでくれる娘ができ、人生の円環を閉じることができるようになりました」と両親宛に書き送っている。あまりにも若くして死を意識しているのも、一種の美学なのだろうか。フィデルやラウール・カストロがしぶとく生きて、かつキューバという国家を生き延びさせて、米国と国交を再開するというしたたかな現実主義とは鮮やかな対照になるだろう。あるいはフィデルのような破格の最高指導者とはゲバラは役割が違ったということか。
ゲバラの「別れの手紙」のフィデルによる改ざんの話である。著者が1998年、ゲバラの娘のアレイダへのインタビューで知ったという、いはば著者による発見だ。これはソ連が、ゲバラが再び「成功した革命家」としてキューバに凱旋することをフィデルを通して阻止する、ゲバラが万が一「勝利しても帰れない」ようにしたと著者は解釈する。フィデルの冷酷な現実主義者としての側面。そうすると「永遠なる勝利まで」という革命標語はどうなるのだろう。これも再検討だろう。
著者はたびたび「熱帯キューバ人には向かない」という風土決定説を持ち出す。熱帯の島キューバと高原の国ボリビア、大平原のアルゼンチン。じゃぁ、熱帯密林のコンゴではどうだったのか。いや歴史が違うから…というのだろうか。アフリカ大陸においても、密林のコンゴやナイジェリアとサヘル地帯、サバンナと疎開林の東アフリカ、温帯の南部アフリカに生きる人たちの気質の違いは間違いなくある。しかし、熱帯生まれ育ちの人間は頑張れないというのは、どうかしらんと引っかかる。ゲバラのキューバ・ゲリラ兵はコンゴでもボリビアでも敗退したのだ。
著者の結論は「あとがき」の中に見られる。「キューバ革命の偉大な副産物」と位置付けている。「キューバで武力革命に成功すると自信過剰気味になって、平時より戦時に魅惑され…運命に引きずられて生き急ぎ、死地に赴いた。だがチェの死はボリビア軍部やCIAの思惑を大きく裏切って永遠の生命を与えた」とする。ゲバラと一緒にボリビアで戦ったレジス・ドゥブレは「チャベスのベネズエラのようなような改革政権がラテンアメリカにいくつも登場した事実はチェの革命行動が無駄ではなかったことを示す」と著者に2010年に語ったという。あまりに多くの人が殺されていった歴史の話だが、チェ・ゲバラを偶像化することなく、丹念に彼の発言や知る人の証言を追っていった著者の努力に敬意を表したい。
著者の経歴を見るとラテンアメリカが専門のようだが、私が存じ上げているのは共同通信の南アフリカ特派員(1981~84年)として駐在されていたことで、おそらくその駐在後に日本で、日本のアンチアパルトヘイト運動であったアフリカ行動委員会の集会でお会いしたことがあるかなと思う。当時崩壊過程であったとはいえ、まだ存在していた南ア・アパルトヘイト政権の報告書『南アフリカの内側』を読んでいた。当時の南アの状況も興味深いが、最も関心を引いたのは「名誉白人」社会の内側だった記憶がある。
ゲバラ伝としては本書が最も新しいのかもしれない。先行文献を読み込み、関係者にインタビューし、関連する場所に自ら足を運んで書かれたものだから、より真実に近づいているのだと思う。しかし、やはり著者の思想、好み、思い入れが反映しているのだろうと感じた。先行の三好徹や戸井十月、あるいは同時代現場証人であるレジス・ドゥブレとか、ゲバラ自身の『コンゴ戦記』を読みたいと思ったが、いやいやそんな時間はないと思いなおす自分の年齢を顧みてしまう。
おまけである。毎度の私のこだわりである。「部族」という表現が繰り返されている。ラテンアメリカ専門の研究者やジャーナリストに多いことである。先住民の呼称として使われることが多いのだが、本書では著者はアイマラ人、ケチュア人、グアラニー人と表記している。しかし、コンゴ戦記の中でのアフリカ人は皆「部族」と呼ばれている。この区別いや差別はどこからきているのかと疑ってしまう。
☆写真は本書の中から。
☆参照文献:
・板垣真理子『キューバに行きたい』(新潮社、2011年)
・堀田善衛『キューバ紀行』(集英社文庫、1995年、初刊は岩波書店、1966年)
・伊高浩昭『南アフリカの内側-崩れゆくアパルトヘイト』(サイマル出版会、1985年)
(2016年7月1日)
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