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読書ノート No.112   瀬川拓郎『アイヌ学入門』

根本 利通(ねもととしみち)

 瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)  

📷  本書の目次は次のようになっている。   はじめに   序章 アイヌとはどのような人びとか   第1章 縄文-一万年の伝統を継ぐ   第2章 交易-沈黙交易とエスニシティ   第3章 伝説-古代ローマからアイヌへ   第4章 呪術-行進する人びとと陰陽道   第5章 疫病-アイヌの疱瘡神と蘇民将来   第6章 祭祀-狩猟民と山の神の農耕儀礼   第7章 黄金-アイヌは黄金の民だっだのか   第8章 現代-アイヌとして生きる   おわりに

   「はじめに」で著者は、アイヌのミュージシャンOKIの演奏から語り始める。「グローバリズムでも民族主義でもなく」として、自然と共生するアイヌ(未開、野蛮)ではなく、交易民としてのアイヌ(異民族との生々しい交流)を描こうとする。アイヌの歴史を文化交流史として描く、異文化の影響を明らかにすることによって、「日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめる人びと」という特徴をもち、和人とは異なるアイデンティティをもち、みずからを異なる民族と認識するアイヌの姿を描くという施政方針である。

 序章は、札幌生まれである著者が大学を卒業し、旭川で遺跡発掘調査をするまでアイヌとは出会わなかったということから始められる。1980年代前半のことだろうか。著者はアイヌの人たちとのかかわりのなかで、「変わらなかったアイヌ」「変わってきたアイヌ」「つながるアイヌ」という三つのテーマでアイヌの歴史を考えてきたという。金田一京助の「未開人・野蛮人観」や「アイヌ・エコシステム」という見方とは距離を置く。そして「私たちがアイヌの人びとと生きていくうえで必要なのは、自然の摂理を体現する神のようにまつりあげるのではなく、‥同じありのままの人間としての歴史をみつめ、『共感』することではないか」(P.29)という。

 第1章ではアイヌ語の孤立性を分析している。日本語からの借用語彙の少なさ、アイヌ語内の方言の分布の違い、サハリン方言と北海道方言の分岐の年代を言語学的、考古学的に検討する。本州のマタギ言葉へのアイヌ語語彙の混入も指摘する。イオマンテのクマ祭りも、本州のイノシシ祭りの輸入だろうという。ミイラ習俗やイレズミなども検討している。そしてアイヌは縄文思想・イデオロギーの継承する人びとだという。

 第2章では沈黙交易に触れる。近世における千島アイヌと道東アイヌとの沈黙交易をまず紹介する。異民族間はなく、同族間でなぜ沈黙交易がおこなわれたか。アフリカでもガーナなどにおける沈黙交易は有名だが、ヘロドトスが紹介するカルタゴ人とリビア人との間の例から、世界じゅうでおこなわれていた「接触忌避交易」だとする。つまり、異人との接触から来る穢れ、病気、災厄を避けるためなのだ。アイヌの同族ではなくても、ツングース人、サンタン人、オホーツク人などの北東アジアの先住民との沈黙交易も語られる。また道南の和人との交流から生まれたクレオール文化を著者は「青苗文化」と呼ぶが、アイヌのなかに交易を通した多様性を見ていく。「交易を通して見えてくる複雑なアイヌの姿は、かれらを歴史をもたない民、閉じた世界に安住する狩猟採集民、政治統合もない低位レベルの社会などとみなす、あらゆる言説が誤りであることを示す」(P.133)と述べている。

 第3章ではアイヌの小人(コロポックル)伝説を検討する。17~19世紀の文献史料、考古学資料(土器など)から、モデルは北千島アイヌではないかと推定する。「原」伝説の成立の時期は15世紀ころと推測する。さらに、ユーカラの同じようなモティーフ、義経伝説「御曹子島渡」やプリニウス『博物誌』やサハリン先住民の海上異界譚にも話は及び、ローマから中国経由日本からまたはサハリンから伝わったと想像する。「時間・文化・民族・国家を越境していった伝説のしたたかな力を、あらためてみるおもいがする」(P.165)と結ぶ。

📷 アイヌと周辺民族の文様  第4章ではアイヌの呪術は日本の陰陽道、修験道の影響を受けているという話である。呪術というのは、当時の先端科学、医療であり、それを中国から日本へ導入し、それをアイヌも意欲的に受容したのではないかという。沈黙交易でも触れられた外の世界からのケガレに対するおそれ。エトロフ島で見られた行進呪術と、陰陽道の「へんぱい」という行進呪術との強い類似性をあげ、9世紀後半から10世紀にかけて東北北部の修験者が北海道に持ち込んだ可能性を指摘する。9世紀以降、仏教の殺生罪業観から殺生肉食、狩猟の排除され、殺生と肉食を日常とするアイヌはケガレた存在とみなされた。「ケガレという『排除』の思想とは無縁にみえる縄文的世界観を考えるとき、アイヌがケガレ祓いの呪術や思想を日本から受容したとすれば、それは歴史の皮肉‥『外来思想』だったのではないか」(P.192)と違和感を表明する。

 第5章ではアイヌの病気に対する認識、関わりを論じる。「疱瘡神」と呼ばれるものの伝説である。疱瘡とは天然痘のことであるが、アイヌにも15世紀から猛威を振るい、人口が激減したことが何回かある。それを神と恐れ、歓待し、何とか克服しようとする姿勢を、本州の「蘇民将来」伝説との共通性を探る。海から襲来する神として、アホウドリと強い関係を持つ。これは日本への疱瘡の伝来が遣唐使や朝鮮経由で海からもたらされたことに由来する。日本の民間伝承との共通性、草人形を流すことなどに触れる。サハリンや北千島のアイヌは木の人形を作るが、北海道のアイヌは、草人形以外は作らず、それも疱瘡を避けるための草人形に特化・集約化したのではないかと推測する。

 第6章ではアイヌの祭祀を考察する。アイヌ語には日本語からの借用語彙は少ないが、祭儀に関する語彙は多くが古代日本語からの借用語なのだ。カムイ(神)、タマ(魂)、ノミ(祈み)などである。著者は7世紀後半~9世紀にかけて、東北の太平洋岸から北海道の石狩低地に数百人規模の和人の移住があり、彼らはアイヌに同化されたが、雑穀農耕文化や古代日本の宗教儀礼が伝わったとする。祭具や酒作りなどの比較検討から、著者はその宗教儀礼を狩猟民と農耕民の文化の二つの要素からなるとみる。アイヌの祭祀は縄文伝統を核としながら、日本の祭儀から多くの影響を受け変容してきたのであり、その文化伝播のメカニズムを解明することが、逆に古代日本の民間の宗教祭儀を復元するてがかりになるのではないかという。

 第7章ではアイヌと金の関わりを探る。18世紀以降の記録では、アイヌは金の価値も採取法も知らない未開人だったかのように記されている。しかし12世紀の平泉に栄えた奥州藤原氏の富の源泉は、金、馬、オオワシの尾羽、海獣の毛皮であったわけで、北海道との交流が濃厚であった可能性がある。厚真で12世紀の常滑焼の壺が見つかり、そして中尊寺金色堂の昭和の大修理の際に金箔のなかに日高の砂金がみつかると、著者は厚真川で砂金専門家と調査を行い、砂金を見つけてしまうという行動力を示す。そしてその砂金の成分分析は現在進行中という。著者は9世紀後半に青森に和人進出し、そのなかにいた陰陽師、修験者、特に熊野修験者が金の探査・採掘・商業に関与していて、その流れの中での北海道渡海、そして奥州藤原氏滅亡後の進出の可能性に触れている。

📷 帰島する仲間を行進行列で迎えるエトロフ島アイヌ  第8章は現存のアイヌ女性へのインタビューである。1961年、旭川で父母ともアイヌの子どもとして生まれた。戦後、アイヌの開拓団に与えられた郊外の入植地で、母は畑仕事、父は山仕事とクマの木彫りをして厳しい生計を支えていた。家庭内ではアイヌ語は話されず、伝統儀礼にも接しなかった。小学校では自分をアイヌだとは認識せず、周りは「アイヌなのに頭がいい」と思っていたらしい。中学校に入って母からアイヌであること、旧土人と言われていることを聞く。アイヌであることは恥ずかしいことなのかと思う。26歳でアイヌ語を学びだし、28歳でアイヌ民族文化祭で大きな衝撃を受けた。その後、日本人にもアイヌにもなりきれない中途半端な自分を感じ嫌だったが、今は自分のなかには、愛すべき二つの文化が存在していると感じている。「アイヌとして生きることが、痛みや葛藤をともなわない社会になってほしい。アイヌであることがなにも特別なものではなく、母であり、職業人であるのと同じような、一つの選択と受けとめてもらえる社会になってほしい」(P.297~8)と語っている。

 「おわりに」では第7章で述べられた金探索の話題の延長が出てくる。陸奥で日本で最初に金が発見されたのは749年だが、その時朝廷に金を献上した陸奥国守は百済王敬福という渡来人で、その金属探鉱技術者出会った渡来人集団は5世紀には陸奥に進出しており、フロンティアでは和人、渡来人、アイヌの多民族状況が生じていたという。6世紀後半の須恵器が富良野で発見されたことも、古墳社会の人びとによる祭祀が行われていた証拠であり、それを担った人たちが砂金探索の渡来人かもと著者の着想は広がっていく。

 昨年、「アイヌ民族なんてもういない」と放言して話題になった札幌市議がいて話題になった。日本人の民族問題に対する認識の貧困を象徴するような発言だった。それなら「アイヌ人はもう絶滅させた」とうそぶけばよかではったのだ。

 著者は考古学者である。遺跡から発掘された考古学史料と文献史料を突き合わせ、かつ言語年代学とか、海外の文化人類学調査の成果を突き合わせて検討している。私がアイヌのことについてほとんど知らないからはっきりとは言えないのだが、斬新な成果もあるように思える。ただ、それが確定した学説なのか、まだ著者の個人的新説なのかはわからない。可能性の推測が多いように思う。

 実は最初通読した時、あまり感心しない気がして、しばらく(3か月くらいか)放置して、再読してみた。なんとなくあざとい気がしていたのだ。考古学の出土品から歴史を再構成するというやり方は、文献史料をメインに置く伝統的な歴史学的手法から見ると、実証性に欠ける妄想のようにみなされかねない。しかし、文献に残された史料が主として勝ち残った支配者に都合のいいものが多くなるだろうし、敗れ去ったものや声を上げられなかった庶民たちの声は聴けない。ましてやアイヌのように自らの文字を持たず、ユーカラのような交渉伝承や記憶に頼ってきた民族の歴史を描くのに、日本人の史料にのみ頼っていては偏るのは明白だろう。学会の状況はまったく無知だが、著者の努力が広がっていることを祈る。

☆図絵は本書のなかから 

☆参照文献:

(2016年7月15日)

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