根本 利通(ねもととしみち)
金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫、1978年刊、初刊は山雅房、1940年刊)。
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本書の目次は次のようになっている。
センブロン河
バトパハ
ベンゲラン
スリメダン
コーランプル
シンガポール
爪哇
スマトラ
跋
目次といっても紀行文であり、現在のマレーシア、インドネシアの地名である。耳慣れない地名をまず地図上で探してから読みだすことになった。爪哇がジャワのことだと確認し、コーランプルが実はクアラルンプールのことだと理解した。
金子は有名な詩人だが、読んだことがないのでよくは知らない。なんとなく反骨の人というイメージだけである。その紀行文を読むことになったのは、永積昭『オランダ東インド会社』のなかの「塗り込めた首」の章で、オランダによるインドネシアの植民地支配の傷跡をうたった、1932年に訪れた金子光晴の散文詩が引用されているからである。
1932年は昭和7年で、この紀行文は1928年~32年の間の4年間の放浪の記録で、かつ刊行されたのは1940年(昭和15年)である。15年戦争はすでに始まり、やがて大東亜戦争になだれ込もうとしている日本の旅人(知識人・詩人・画家)が、英領馬来、蘭印の植民地支配をどう見たか、あるいは1722年の蘭印バタビアにおけるエルベルフェルトのさらし首をどう感じたのだろうかという興味からである。したがって、この紀行文というのか散文詩というのだろうか、「痛ましいまでに練りあげられた散文の粋」と解説に評されたものを味わうものではない、無粋なものである。
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金子光晴
著者の旅は、本書の目次の通りの順番ではなかったらしい。シンガポール、ジャワ、スマトラにも立ち寄っているが、本書ではおまけのような分量である。本書を取り寄せた目的のひとつであった「エルベルフェルトのさらし首」の項も含まれていない。肩すかしであった。本書の中心になるのは現在のマレーシアの南部ジョホール州のセンブロン河、バトパハ、ペンゲラン、スリメダンといったゴム園、鉄鉱山を日本人が経営している地域である。
船で河を遡上する。両岸にはマングローブやニッパ椰子が生えた密林で、カワセミが飛び、大トカゲが水中に姿を消す。ときどきカンポン(部落)が現れ、馬来(マレー)人の集落、支那(中国)人の店などが見える。その森林の奥地に日本人が切り開いたゴム園があり、著者はその日本人ゴム園の日本人クラブの賓客として泊まる。旦那(トワン)と呼ばれる日本人の賓客だから、なかなかいい待遇のように見える。「森林の寂寥は、私を目ざとくさせ、耳聡くさせ、ねむろうとするこのからだから、反対に意識を冴返らせる」(P.25)世界である。
トワンたちは朝早く起きて、現場を一巡りしてくるともう仕事はなく、読書、テニス、麻雀となるという。これは優雅なのではなく、ゴムの供給過剰をめぐる英蘭生産制限協定が決裂の見込みで、ゴム価格が暴落していて開店休業の状態なのだという。日本がマレー半島のゴム植林に目をつけたのは清朝末期のことという。当時やってきた日本人は一旗組というか、流れ者、前科者、脱走船員などが多く、女衒、からゆきさんも一緒にやってきた。今は本社から派遣されてきた学校出のおとなしいサラリーマンが増えていて、すぐにホームシックにかかる若者もいるという。
しかし、著者の目は生活の厳しさを浮かび上がらせる。「土人はおのれが土で造られたものと信じている。‥人種の差別がうけるたましいのいたみ。それは、目にみえぬ獄」(P.20~21)。マレー人は余韻がない、徹底した刹那主義、猿悧巧、懶惰、無責任、淫縦などとと評される。そしてその理由を、暑熱のための心神弛緩、回教の影響、イギリス統治下のながい誅求、華僑の手管などと思いをいたす。全部が細民で、貧農、小使、園丁、運転手か、出世がしらが巡査か郵便局員という。
中国人は苦力としてやってきた肉体労働者が多く、阿片がないと頑張れない年配者もいる。土匪といわれる連中もいるようだ。苦力賃はマレー、ヒンヅ-60~70銭であるが、中国人は1弗20銭であるという。それだけ能率が上がるらしい。しかし何せそれ以前からの華僑の伝統がある。瘴癘をしのぎ、毒虫悪蝎と戦い、はるばるこの異域に、根をはり、枝葉をしげらせた「商戦雄師」の夢。珈琲店、総菜屋、まんじゅう屋。例えばバトパハは人口4万で80%は華僑、日本人は約450人という記述がある。シンガポールから入り込んでくる排日宣伝とか、共産系の広東人の扇動による同盟罷業とか、時代を感じさせる。
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マレー蘭印紀行の訪問地
インド人はヒンヅーと当てられているが、多くの民族が来ている。支那人と同じように珈琲店を出したり、チッテ(コロマンデル海岸南部出身のタミール系)といわれる金貸し、ベンガル人。ほかにもアラビア人、ユダヤ人、シャム人、ジャワ人、そしてさまざまな混血など。
もっとも優雅な生活を送っているのはやはり植民地宗主国の西洋人であろう。その姿はシンガポールのタンジョン・カトンでの海遊びに一家づれでちらっと登場するのみだ。オランダ人は出てこない。シンガポールからバタビアに渡ったオランダ汽船のなかの食事のオランダ風が述べられている。
山奥のスリメダンに石原鉱業が鉄鉱山を経営しており、バトパハの街ではまだランプやアセチリンで灯りをとっているのに、そこにで電燈の花がさいているという。ヨーロッパ人が見捨てた屑山を買って、ひと山当てたらしい。今やシンガポールの日本商工会議所の会頭にのし上がったが、鉄鉱石の埋蔵が限られていて次はジャワの銅山を狙っているという。ただマレーのイギリス政府、ジャワのオランダ政府の重税政策のため採算が難しく、現状打開の国策支持の傾向だという。三井三菱との競争にも触れられている。
南洋の英蘭の植民地に売り込まれていた日本商品(日貨)が並べられている。懐中電燈、安香水、石鹸、運動シャツ、歯楊子、セルロイド製の櫛、洗面器、絹ハンカチーフ、魔法壜、これらはマレー人にとっては文明の魅惑なのだという。1890年代の古い渡航者とは異なり、今は三井物産を先頭に会社組織で相当な資金を持って進出してくる。古い時代の例えば娘子軍は供給が途絶え、高齢化している。「見得坊で、狡猾ないぎりす人は植民地では、数限りない曲事の限りをつくしながら、非人道的な娼妓の存在を、自分達の息のかかっている場所からは根絶しようという紳士的相貌をおもてに掲げる」(P.118)
本書を読むと漢和辞典を引かないとわからない漢字や言い回しが出てきている、それは私の日本語力が衰えているせいもあるが、およそ半世紀の世代差、日本語に対する要請の違いもあるのだろう。私よりさらに半世紀遅れた現在の中学生・高校生たちは、この文章を現代文としてではなく古文として学ぶのだろうか。それにしても文学修業の精髄を読んだように感じた。次は『西ひがし』だろうか。
☆参照文献:
・永積昭『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫、2000年。初刊1971年)
・藤原章生『絵はがきにされた少年』(集英社、2005年)
(2015年2月1日)
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