根本 利通(ねもととしみち)
金子光晴『ねむれ巴里』(中公文庫、1976年刊、初刊は中央公論社、1973年刊)。
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本書の目次は次のようになっている。
瘴癘蛮雨
四人の留学生
冬の森
泥手・泥足
処女の夢
22番・ダゲールまで
うしろに目のない譚
あぶれ者ふたり
伯爵夫人モニチ
枯葉
ふたつのふるさと
リオンの宿
ねむれ巴里
巴里人といういなか者
巴里・春秋
硝子のステッキ
この本は自伝的三部作としては『どくろ杯』の続編で、『西ひがし』の前編である。私は『マレー蘭印紀行』から始まって、東南アジア(現在のマレーシア、シンガポール、インドネシア)における当時の日本人の植民者的精神を知りたくて読みだしたので、パリの話はいいやと思っていたが、金子光晴の文章に惹かれ、その旅と心の動きを追ってみた。時代は1929年暮れから約2年間、満洲事変の勃発直前までである。ただし、執筆は40年経過した1970年代初めである。
妻を一足先にパリに送りだした著者は、マレー半島やスマトラ島の日本人植民者を周り、その肖像画などを描いて小金を稼ぎ、彼女を追いかける船賃を作る。この旅は著者にとっては10年ぶり2回目のフランス行きになる。著者はフランス語が正課であった暁星中学校の出身であったが、1回目の旅から帰った後も、行ったことのない同級生の方がパリのことを知っていたというエピソードが出ている。出たとこ勝負の人生である。明治時代の洋行は、ロンドン、ベルリン、アメリカの諸都市が中心で、フランスはあまり人気がなく、それを選ぶものは「腰ぬけか助平、自然主義文学者」ということだったが、大正時代に入り、美術家、文芸家あこがれの土地となったという。
シンガポールからマルセイユ行きの郵船の船に乗り込んだ著者は4人の中国人留学生と同室になる。彼らは蒋介石の中国から派遣された男女2組だが、軍事経理学、飛行将校、軍需品製造見学を学びに行く途中で、仮想敵国は日本であり、その2年後に勃発する満洲事変は著者には想像できていなかったという。この中国人との交流から、著者は「明治という年月も、この頃よく言われる土性骨(武士あがりの武骨ものと、百姓上がりの頑固者)ばかりで栄えたのではなくて西洋へのあくがれと昔ながらの商人の世辞追従で花をひらかせた一面もあったようだ」(P.30)と感じる。
マルセイユに上陸し、パリまで夜行列車で行き、妻との再会を果たす。そして二人でのパリ散策のなかで、バルビゾン村での80歳代の中睦まじい老夫婦と会う。「あの色情狂のようなフランス人の、さいはての姿がこれであることが僕らには、驚異であった。この老婆の小娘であったとき、愛情を訴えたのとおなじ、いんぎんさで、彼女のために心をつかっている彼の姿は、いじらしい程で、みている僕は、彼らの神に対して憤りをさえおぼえるほどであった。…僕は、傍らの彼女が、やはり瞠目してながめているのをみて、この人生で、こんなことが窮極の幸福であるとおもわせたくなかった」(P.68)と記す。
パリとそこに住まう人びとのことは辛辣に描く。「そういう馴々しさでひきつけるのがパリのかまととの手練女のような媚びかもしれない」(P.69)。「パリの人たちは、いつになっても、コーヒーで黒いうんこをしながら、少し汚れのういた大きな鉢のなかの金魚のようにひらひら生きているふしぎな生き物である」(P.70)。「フランス人、あるいはパリ人というものの、一面小面倒な選民意識とつながっているようにおもえてしかたがない。なにしろ、フランス人一流のじぶんたち以外のものに対する常識のないことについてはおどろかされる」(P.72~3)。「花のパリは、腐臭芬々とした性器の累積を肥料として咲いている、紅霞のなかの徒花にすぎない」(P.79)などなど。
その当時のパリには美術や文学を志す若者が多く滞在していた。著者金子光晴も妻の森三千代もその一群の一人だったのだ。藤田嗣治や岡本かの子、深尾須磨子たちの名前も挙がっている。しかし、後世に名を残した人たちはごく一握りで、大勢の落後者やパリで朽ち果てていった人がいる。 「同類の多いのを喜ぶ意地悪さではなく、他人の欠落、不運だけをよりどころにし、支えにして生きのびなければならない、われも他人とおなじ、生きるということの本質の、嘔吐につながる臭気にみちた化膿部の深さ、むなしさ、くらさであって、その共感のうえにこそ、人が人を憫み、愛情を感じ、手をさしのべる結縁が成立ち、ペンペン草の花のような、影よりもいじけてあわれな小花もつくというものである」(P.93)という文章がちらほらし出す。
藤田嗣治の「パリでがっちり生きていくには、あくまでも日本人であること」という所説が紹介されたかと思うと、妻の父からの送金を使いこみ、「人間はどんなに飾り立てても、ハイエナ以上のものではない」(P.123)と述べ、「ぐうたらで、能なしの汚れたヒモのような男」と自嘲する。「西洋での身の詰まりかたは、さすがに個人主義国だけに凄まじいものがあった。破産者は遠慮なく自殺した。敗者が生き残れる公算がないからである」(P.132)という観察も身近な出来事として実感として語る。
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金子光晴
大本教の布教者、あぶれ者、満洲浪人きどりの日本画家、スラブ系と思われる伯爵夫人とその英国人貴族の情夫、その取り巻きの一見上流階級らしく見せている詐欺者の婦人たち。跛者の娼婦、インテリのペルシャ女家主に紐が吸い付き、その後を襲った働き者の女家主にもジゴロが食いつくという人間模様。長年パリで日本人相手の旅館を経営していて、最後に自殺する老夫婦にショックを受ける。
パリでジプシーたちの興行を見て、日本の祭りを思い出す。その野性の女の姿に惹かれ、女たちを見るためにフランスのキャフェの往来にこぼれだした椅子は思いつかれたのかと想像する。著者は疲れて怠惰を決め込むが、妻は勤勉にフランス語やダンスのレッスンに通い、ハンガリーやヴェトナムから来た学友たちと語らい、コムニズム革命の本を読んでいる。著者は漠然と「二人ともパリの土になるだろう」と幾度も思うようになる。
リオン駅の外の夜、フランス人と英国人を比較してみる。「駅の外で夜中でも濃いコーヒーが待っててくれるという仕組は、とかく旅に出るとうち恋しい彼らの願望がつくり出したもので、周りの条件が一応、我慢できるようになると、彼らはまた、どんな辺土にでも、そのまま居ついて、どこの生活にも融け込んでしまうという一面もあった」「それにくらべてイギリスの植民地に出張した人たちは、たいてい独身で、三年でも五年でも、八年でも傲岸にかまえて、…支配者の姿勢をくずさずに生きていくことを真骨頂としていた」(P.241)。
「パリは、よい夢をみるところではない。パリよ、眠れ、で、その眠りのなかに丸くなって犬ころのようにまたねむっていれば、それでいいのだ」(P.263)。教養人片山敏彦への反感を語り、「文学よ、汝の名によって、いかに多くの、生涯しびれのとれない、へんな奴ばかりがふえにふえて、したり顔で浮世をわたることになってしまったことよ」(P.271)。
「一面、頑強な祖国愛をもちながら、他の一面で、平等の精神、それはやはり、植民地政策のいやらしい介入と通じるものではありながら、現実には、多くのパリ人が、人種差別の極端な差別感情を外にあらわさない…パリ以外の土地でもフランス人は、他の国の人間に比べれば、排他的ではないようだ」(P.282~3)。「パリが今日のように程よく繁栄して生きるためには、われらいっさいのエトランジェはその栄誉のために身銭を切らねばならないし、血税をささげなければならない。その矜持において、パリ人は、フランスばかりではなく、ヨーロッパといういなか者の根性を代表しているようにおもえる。…猫撫で声と、造り笑顔、愛と自由と正義はもうやりきれなかったからだ」(P.286~7)。
「明治の後期に、日本人は、たいてい、西洋人に成りあがろうと競争したものだ。…西洋人であることのつまらなさが、異邦人の僕にもなんとなくわかるような気持ちになってきたのである。パリは西洋すぎるほど西洋の文明都市であり、猶、この先もそうであるにちがいない。そう考えただけで、呼吸が苦しくなってくるのであった」(P.301)。「男、女のあいだとおなじに、惚れ込んでいるあいだは、世界の花の首都であるが、嫌気がさしたら、売色の巷であり、目先の流行をつくりだすだけの浅墓な、そのうえ、吝嗇で勘定だかい、どこまでも小理屈で利害をまもろうとする、似而非才子佳人の腹ぎたない、見かけだけ華美な人間たちのうようよしている偽善の街に面変わりする」(P.302)。そして1970年代の日本を「50年昔のパリといまの東京の街とは似すぎるほど似てきているのである。…この心狭さは、フランス人もよく似ている」(P.306)という。
そして森はアントワープへ出稼ぎに、金子は10年前の友人を頼ってブルッセルに脱出する。「小パリ」とよばれるブルッセルは清浄で混沌がない。その一方で、パリの街には哲学をもった乞食の精神とその臭気を懐かしむ。この後、妻を残して著者はシンガポールに向かい、『西ひがし』へとつながっていく。
金子光晴の冷徹な文明観は鋭く、かつ生々しい現実感がある。実際には30数年後の日本で書かれた自伝的紀行だし、その後の歴史の展開、70年代の日本の現状を踏まえたうえでの分析だろうし、詩人的脚色・描写もあるだろう。従って、1930年前後(満洲事変勃発前夜)の日本の反骨知識人によるフランス認識そのものかは慎重に判断しないといけないだろう。フランスという主権国家、ただし、この当時にはヴェトナムなどを含め広大な植民地を維持していたから国民と従属民との境は混沌としていただろうと思うし、そこにヨーロッパから、アジアからの異邦人が多く、生活の糧を求めて「花の都」を目指して流入していたのだろう。美術・文学修業あるいは経歴に箔を付けたい日本人の一群はそのなかでは一握りだったのだろう。
主権国家体制が世界を覆うようになってから実はまだそれほどの歴史は経っていない。戦争に行くことを嫌がることを「利己的個人主義、戦後教育の弊害」とほざいたおバカな代議士がいたが、そやつには金子の国家との距離の取り方や息子を徴兵忌避させた思いは想像もつかないのだろう。ただ「そういう態度は日本の伝統に反する」と言うのだろうか。こういう輩が日本の歴史・文化・伝統を貶めるのだ。最後に国家の存在しなかった上海を描いていると思われる『どくろ杯』に戻ろうと思う。
☆参照文献:
・金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫、1978年、初刊1940年)
・金子光晴『西ひがし』(中公文庫、1977年、初刊1974年)
(2015年9月15日)
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