根本 利通(ねもととしみち)
若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国 上・下』(集英社文庫、2008年、940円+860円、初刊は2003年)
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本書の目次は次のようになっている。
プロローグ
第一章 マカオから大きな船がやってくる
第ニ章 われわれは彼らの国に住んでいる
第三章 信長と世界帝国
第四章 遥かに海を行く四人の少年
第五章 ローマの栄光
第六章 運命の車輪
第七章 迫害
第八章 落日
エピローグ
プロローグに本書の執筆動機が書かれている。著者は「戦後、数多くの日本の若者たちが、世界に取り残され、孤立していた日本を変えようとして、西欧の科学や文化を吸収し、それを日本へ持ち帰り、日本を世界のなかに置くためにその人生を賭けてきた」(上巻P.12)という世代で、横浜からマルセイユまでフランスの郵船ベトナム号に乗り、ローマでカトリック美術を学ぶために旅だった。1961年のことである。著者はヴァティカンでミケランジェロと出会い、以降それと格闘してきた。
しかし、1995年、60歳になった著者はこう思う。「日本人として西洋と日本を結ぶことを研究したい」と。そして1961年の船に同乗し、ローマの神学校に向かった3人の若者と、天正の4人の少年使節の姿とを重ねて見たのである。「彼らは、16世紀の世界地図をまたぎ、東西の歴史をゆり動かしたすべての土地をその足で踏み、すべての人間を、その目で見、その声を聞いたのである!そのとき日本人がどれほど世界の人びととともにあったかということを彼らの物語は私たちに教えてくれる。そして、その後、日本が世界からどれほど隔てられてしまったかも。」(上巻P.12)
第一章では1552年(1555年説もあり)に長崎に上陸したとされるルイス・デ・アルメイダという若いポルトガル人宣教師から語り始める。フランシスコ・ザビエルに遅れることわずか3年である。彼は商人宣教師とも陰口をたたかれながらも、ゴア(マラッカ)、マカオとの三角交易で稼いだ資金で、孤児院、病院を作ったという。著者は問う「一攫千金を夢みて祖国ポルトガルを捨て、仲介貿易で巨利をむさぼった野心満々の若者が、祖国から遠い島国日本で、その全財産を投げうち貧者の救済に献身して日本に骨を埋めてしまったのか」。そして、「投機的な世界経済とキリスト教の世界布教の双方を一身に体現していた」という答えが見えてきたという。
戦国時代末期、下克上の時代、困窮、飢餓が横行しており、キリスト教の慈愛の思想が数十年間に九州の人口の30%の30万がキリシタンになるという布教の成功をもたらしたという。ザビエルと接触し、当初からキリスト教を受け入れていた大友宗麟の文化人としての素養、国際感覚に触れる。仏教・神道は政治・経済・権力=支配階級と結びついていたため、貧困な民衆・女性は失うものがないから自由であり、また若者たちの新しい世界へのあこがれからキリスト教に入信しやすかったという。
第二章では、1579年に日本にやってきたイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノのいうイタリア人を取り上げている。「違いがわかる男」が「われわれは彼らの国に住んでいる」と認識したとき、どういう布教の方針を採ったのか。それまでの布教の責任者であった準管区長の軍人出身のポルトガル人カブラルとの対比で語られる。カブラルは「日本人は黒人だ。傲慢、貪欲、不安定で偽装的」だとして、侮辱的・差別的態度をとり、自らは日本語を覚えたり、習慣に順応しない、教育しない方針を採っていた。しかし、新しく赴任したヴァリニャーノは「日本人は白人と同じく礼儀正しく、聡明で、面目と名誉を重んずる国民である」と、日本の習慣に合わせ、教育制度を整える方針を立てたという。カトリックの布教のための「順応策」である。
著者は「異国の高度の文明に対する偏見のなさ、あるいはむしろ自然な尊敬は、それじたいが高度な文明と教養の証拠である。…じつはルネサンス人文主義の本質にあったものであり、ヴァリニャーノのルネサンス・イタリア人としての資質や教養を示すものであった」(上巻P.169~70)。さらにカブラルの布教における「同化策」を「あえて言えば、スペインとポルトガルはイタリアにくらべると本当に成り上がりの好戦的な国だった」(上巻P.172)と踏み込む。しかし、ヴァリニャーノの布教のための教育に学校や印刷所を設立したことを浪費と批判する勢力もあり、ローマ教皇に日本の実情を訴える使節を送ろうとなったのだという。
第三章では、日本のおけるキリシタンの最盛期を現出するのに保護する立場だった織田信長とイエズス会との駆け引きを描いている。万世一系で、かつ「鎮護国家」として仏教を導入した朝廷は、当然キリシタンを受け入れることはなく、1565年に最初の宣教師追放令が出される。しかし、1569年に将軍を奉じて入京した織田信長によって、京都居住の朱印状を得る。信長がキリスト教に共鳴した形跡はない。しかし、旧来の権威を否定し、絶対的な権力者を目指していた信長は、旧来の支配階級と結びついた仏教勢力を力づくで鎮圧し、朝廷も押さえこむのに、キリシタンは利用されたのだろう。信長は日本支配のみならずさらに目を世界に向けていたため、キリスト教宣教師は利用価値があったのだ。
この信長の保護期(1569~82)が、日本キリシタンの絶頂期であったという。信長の家臣のなかに高山右近のような有力なキリシタン武将が現れる。右近は、その父高山ダリオが改宗し、少年時に洗礼を受けた第二世代で少年使節たちと同世代であった。第三世代以降は隠れキリシタンとなり、明治以降に再登場し日本教会の奇蹟と言われたという。1581年春に信長が京都で行なった馬揃えについて、その政治的な意味はともかくとして、信長の衣装に注目しているのがおもしろい。金の紗、緋色の小袖、白の袴、赤いビロードの帽子といういでたちで、ヴァリニャーノの贈物であった深紅の椅子に座った。その豪華絢爛な派手好みは、江戸時代の地味な日本の好みと違い、西洋の16~17世紀のバロックと似通うものだと指摘している。
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天正少年遣欧使節の航路
第四章では、少年使節の選抜から船出、そしてインド洋を渡り、リスボンに到着し、スペインの国王に謁見するまでが描かれている。ヴァリニャーノは「教皇に日本教会の存在を知らしめ、この重要な教会への積極的な援助をカトリック教会の中枢部においてかち得るため、そして神学校の基礎を確実にするために、少年を使節として派遣し、自分も一緒にローマに行こうと決心した」(上巻P.435)という。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の3人のキリシタン大名が、臣下の武士の少年を名代としてローマ教皇に送ったという遣欧使節である。この正統性をめぐってさまざまな中傷、内部告発があり、「虚構でかためた詐欺的事業」と総括する歴史学者もいたようだが、そこには立ち入らない。歴史的な結果というのが重要だと思うのである。
1582年2月20日、一行は長崎を出帆する。巡察師ヴァリニャーノが引率し、正使が伊東マンショと千々石ミゲル、副使として原マルティーノ、中浦ジュリアンの計4人の少年使節。修道士メスキータ、ジョルジ・ロヨラ(日本人)が道中の家庭教師役(ラテン語、日本語)として付き、さらに従者として日本人のアゴスティーノ、コンスタンティーノ・ドゥラードの2人の少年が随行した。彼らは布教のための活版印刷術習得を目的としており、後日の天草キリシタン本をもたらすことになった。少年たちが多かったのは、長旅の歳月や死亡する可能性を考えて、いはば「犠牲の子羊」であったという。当時の船旅は帆船だから季節風を待つ旅で、マカオ、マラッカ、コーチン、ゴアと回って行く間、、長期の逗留を余儀なくされることもあり、リスボンに到着したのは、1584年8月11日、2年半の長旅であった。
第五章では、いよいよローマに到着して、教皇に謁見する。当時同君(フェリペ2世)連合であった、ポルトガル・スペインを通過するのに半年かかった一行が、イタリア半島のトスカーナ大公国に到着したのが1585年3月1日、そこでもゆっくり進み、ローマ入りは3月22日であった。4人の少年はなんと2人の教皇に出会うのである。まず3月23日にグレゴリオ5世に謁見する。ユリウス暦からグレゴリオ暦に改革し、アジア・アフリカでの布教を推し進めた人である。この時は「東方の三王」を演出するために、ジュリアンは重病ということにして参加を許されない。何と残酷なことか。2年半かけてはるばるやってきてクライマックスでは姿を消されるという、著者は言う「大きな権力は無力な個人を平然と踏みにじる」と。ところがグレゴリオ5世は4月10日に亡くなり、その後長い後継者選び(コンクラーベ)の駆け引きを経て、シスト5世が選ばれる。その5月1日の即位式に「3人の若いインド人」が参加したという文書記録があるが、ヴァティカン図書館の壁画には4人の使節の姿が描かれているという。
シスト5世から日本のセミナリオへの資金援助の約束を取り付けた少年使節は、本来の目的を果たしたことになり、6月2日ローマを発った。1586年4月12日リスボン発、87年5月ゴア着。そこで待っていたヴァリニャーノと再会する。日本を船出してから5年経過しているから、少年たちも17~19歳になっていたのだろうか。ヴァリニャーノは彼らを「ラガッツィ(少年)」ではなく、「シニョーリ(紳士)」と呼んでいるという。しかし青年たちの日本帰国は1590年まで待たないといけなかった。マカオで1年余り滞在したのである。
第六章では、使節が日本を離れていた8年間に日本で起こったこと、日本のキリスト教にとっての暗転を描く。つまり1582年6月の本能寺の変とその後の秀吉による日本統一である。信長はキリスト教にとって保護者であった。信長がキリスト教を信じていたわけではなく、古くからの神道と朝廷、鎮護国家のための仏教という中世の体制を打破し、絶対主義的な政権を作り上げようとしていた。そのためにキリシタンも利用しようとしていたわけで、それに反発する朝廷・仏教勢力と連携した明智光秀にやられたという。それに対し、秀吉は伝統宗教を制圧・再編利用したとする。
秀吉は大坂城築城の強制労働に大名たちの財力を収奪し制圧していく。1587年の九州平定を前に、大坂城で当時のイエズス会の副管区長のコエリョを謁見する。そして島津の攻勢に苦しんでいる九州のキリシタン大名を救い、その後朝鮮、中国進出を図る際に協力が可能か打診する。コエリョとその通訳であったフロイスはキリシタン大名への影響力や軍船を準備する用意があることを述べて嬉々としていて、事実教会保護状は出るのだが、狡猾な秀吉は猜疑心を強めたという。九州平定を終えた後、博多湾にコエリョが大砲を備えたフスタ船に乗って登場し、秀吉は乗船して周航し、その軍事力を知ることになる。また、その年平戸に寄港していたポルトガルの商船を博多に回航するように秀吉は指示したが、船長は浅瀬を理由に断った。
第七章では、船長が回航を断ったその晩から秀吉が始めた迫害を描く。高山右近は棄教か、領地を捨てるか迫られ、信仰を守ることを選んだ。この右近説得の2回目の使者に立ったのが千利休であり、利休自身もキリシタンであったという説も紹介されている。その晩、秀吉はコエリョに詰問の使者も出した。そのなかでポルトガル人による日本人奴隷売買も詰問の対象になっている。岡本良知によれば「日本人奴隷の分布図は、まず16世紀後半のポルトガル人の勢力の及んだ諸国にわたっている」という。そして伴天連追放令が出された。「近世の中央集権国家の基礎固めは、キリスト教というひとつの宗教集団のホロコースト的な撲滅政策とともに、はじまった」。つまり、秀吉は心の征服、統一を目指したのだとういう。
コエリョの対抗策のなかに、軍事策、つまりフィリピンのスペイン兵に援軍を求めるというのがあった。それを協議した7人の神父のうち、ポルトガル人、スペイン人の6人が賛成し、軍事策に反対したのがイタリア人のオルガンティーノ1人だけだったというのも興味を惹く。一方、秀吉は朝鮮、中国だけでなく、フィリピンにも領土的野心を隠さず、高圧的な文書を送りつけていた。一方スペイン(フィリピン)側も、イエズス会に代わろうとフランシスコ会の宣教師を送り付けた。1596年、運命の船サン・フェリペ号が高知浦戸沖に漂着する。文禄の役で疲弊してた秀吉政権はその積荷を没収する名目として、スペインによるキリスト教布教と世界征服の野望を挙げる。そして1597年2月の長崎での26人の殉教につながっていく。フランシスコ会だけだったのにイエズス会も3人巻き込まれたこと、武士がいないこと、当初24名だった処刑者が、随行して世話をしていた人間も逮捕され26名となり処刑されてしまったことを、著者は「日本の役人は昔から、自分たちの過ちを認めない。それが人の命にかかわるようなことであっても…」と記す。
第八章では少年使節に戻る。1590年7月、8年5カ月ぶりに長崎に戻った彼らは20~22歳になっていたはずだが、変わり果てた日本を見ることになったという。しかし、変わり果てていたのは主にキリシタンをめぐる情勢だったのだろう。その後、秀吉から家康と天下人が変わり、キリシタン側は一喜一憂するが、徳川幕府の幕藩体制の完成に伴い、日本のキリシタンは窒息させられていく。
4人の少年使節は1591年全員天草にできた修練院に入学するが、その後の軌跡は別れていく。伊東マンショは秀吉の仕官の誘いを断り、マカオのコレジオで学び、1608年司祭に叙任される。しかし1612年、キリシタン禁制が強まる前に42歳で亡くなった。原マルティーノはやはり1608年司祭になり、語学的才能を生かして翻訳や辞書の編纂に活躍するが、1614年マカオに追放され、1629年没。千々石ミゲルは司祭になれず、早くに棄教したらしい。ミゲルとの比較で背教者ファビアンのことに触れ、西洋哲学の理解について著者のコメントがある。もう一人のグレゴリオ5世との謁見から外された中浦ジュリアンは、やはり1608年司祭となり、亡命せずに潜伏して活動し、1633年逮捕され、長崎で穴吊りに処せられ殉教した。第1次鎖国令の出た年である。
エピローグでは、著者の思いが明確に語られる。いはく「四人の悲劇は日本人の悲劇。世界に背を向けて鎖国し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦い取った西欧近代世界に致命的な遅れをとった。…しかし、私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。…歴史を動かしていく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったリした個人である。…みな四人の少年と同じ人間として登場する。彼らが人間として姿を見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握った者だけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとがおおぜい出てくる」(下巻P.449)。
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著者の経歴を見ると東京芸大の美術学部を卒業し、ローマに留学した西洋美術史家とある。いわゆる歴史学者ではないのだなぁと思って購入したのだが、名前にかすかに記憶があって我が家の本棚を見ていたら、『お姫様とジェンダー』という新書本があった。「白雪姫」「シンデレラ」「眠り姫」というお姫様ストーリーを取り上げて、女子大生に授業をして語りあった講義録である。ジェンダー論の旗手でもあったらしい。この授業は2001~2年ということなので、本書の執筆と同時進行であったのだろう。
本書は何せ上下巻で1,000ページを超える大作だから、一気に読み切ることはできなかった。しかし、エピローグで「私はずいぶん旅をしてきた。でもこれでほんとうに私がやりたかったこと、知りたかったことが書けた」と著者が述べているように、渾身の力作である。著者の思いが投影され、自らの半生を振り返りながら語る文章には迫力があり、かつおもしろかった。しかし、そこでぐいぐい引き込まれずに、いったん読み進めるのを止めて立ち止まってしまうのは、キリシタンのことがあるからだ。先に読んだ飯嶋和一『出星前夜』でもそうだったが、就寝前に読むとなかなか寝つかれないことがあった。
それは日本における近代以前のキリシタンの運命の陰惨さという先入観、あるいは宗教そのものに対する偏見によるものかもしれないと思ってもみたりする。とくに第二章の仏教による女性蔑視の思想には参った。これは私自身の無知を恥じたこともあるが、日本で親しかった仏僧の人たちの顔を思い浮かべてしまった。二人とも京都の真言宗だし、うち一人は南アフリカのアパルトヘイト問題で知り合った仲だから、差別ということには敏感だった。それでも殉教と美化されつつも虐殺されることとは無縁のように感じていた。絶対的な一神教ではないからなのだろうか。では一向一揆や法華一揆で死んでいった人たちはどうだったのか。あるいは天草の隠れキリシタンはなせ明治まで生き延びたのか。
歴史学者、特に日本の男性の歴史学者の考察はかなり厳しく俎上に上がる。高名な家永三郎や岡本良知も例外ではない。第五章末の「少年はなにを見たか」という節では、少年使節たちの限界を指摘した家永や、キリスト教の傀儡とした岡本に対して「先人の時代と社会認識のずれに呆然とする。…(明治維新とは違って)日本の国策と少年使節は関わりがない」と厳しく批判している。さらに「いったいだれが、封建制の上に立つ絶対権力を組織化していくさなかの日本で、法と正義と平和の主張をなしえたであろうか?…少年たちが見たもの、聴いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。…人間の価値は社会において歴史に名を残す『傑出した』人間になることではない。それぞれが自分の信念に生きることである」(下巻P.101~2)と断じている。
男性の歴史家に対する批判はほかにも、「人間よりも一枚の紙や一個の印鑑を信じるのが歴史家なら、私は…史料ではなく、人間を読む歴史家だと言いかえてもいい」(上巻P.510)とか、「『英雄色を好む』などといった俗っぽいことばで、秀吉の行為を見のがすことは自分自身が男根中心主義である男性の歴史家がやることである」(下巻P.217)など手厳しい。またキリスト教史料のある意味での公正さを挙げ「文化史として興味ある史料を、文化史に疎い日本の歴史家は見落とし…なんらかの思想的政治的傾向をもたない史料があるのか?」(下巻P.94)と問う。
著者の「無数の無名の人びとが歴史を作る」という歴史観には共鳴するのだが、世界観はウォーラーステインの「世界システム論」引っ張られているような気がする。比較の対象はほとんど西欧、それも遅れたポルトガルやスペインではなく、新教国のオランダや英国ではなく、ルネサンスのイタリアなのである。1961年にローマに向かった若い女性の到達した地点なのだ。少年使節が途中通過した、マカオ、マラッカ、ゴアなどは西(ポルトガル)と東の出会ったところでしかなく、南アフリカの人びとは「猛獣のごとく残忍にしてまた悪魔のごとく漆黒な部族」と描いた引用をしている。著者のいう世界とは何かを問いたい気がする。
それは第八章で棄教者ミゲルについての節で、詳しく取り上げられている背教者ファビアンについて、その理由をいくつか検討した後に、スコラ的西欧哲学の理解困難を挙げている。そして、西洋文明に接した日本の知識人の態度として、全力で相手にくらいつきマスターするか、自分が第一人者でいられる日本に回帰するか、第三の道として西と東のあいだに橋を架けるかと述べている。おそらく著者は全力で相手をマスターした後に、プロローグで語っているように橋を架けようと思ったのかもしれない。著者のごひいきのイタリア人神父ヴァリニャーノは「ルネサンス的教養をもった高い知性の人で、日本と中国を西欧と異なっているものの同じように高い文明を持った国として、東西の文明の相互理解をめざした」としているが、当時でも世界は西欧(それもイタリア!)と日本・中国という東洋だけではなかった。
少年使節のたどった旅のルートを記した地図がある。長崎から船出して、マカオ、マラッカ、コーチン、セントヘレナと旅して、リスボンに至っている。復路はモザンビーク、ゴアを経由している。セントヘレナ島は別として、リスボンとゴア以外は行ったことがあるなと思った。実はゴアは今年の正月行く予定を立てていたのだが、所用ができて中止したので、近いうちに旅したいと思っている。ただ、ヨーロッパ内は行けるだろうか、ローマやヴェネツィアにも行きたいと思っているが、時間が許すだろうか。私の旅も早く終わりに近づけて、ほんとうに知りたいことを書ければいいと思う。
蛇足であるが、文庫本の編集には不親切さを感じる。さまざまな文献を引用しているため、各章には注がけっこうあるのだが、それは下巻の巻末にまとめられている。つまり上巻を読んでいて、その注を読もうとすると下巻も常に一緒に持っていないといけないわけだ。元は一巻本だし、文庫化する際に上下ニ巻になったのだろうけど、「文庫本だし、スムーズに読み進めるためには注なんかいちいち参照しなくていいさ」という発想なのか。いや手抜きだろうなと思うのは誤植が残っているのを見ても感じる。また初刊の出版年もどこかに明記しておいてほしいと思った。初刊は書きおろしだったのだろうか。
☆参照文献:
・若桑みどり『お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(ちくま新書、2003年)
・飯嶋和一『出星前夜』 (小学館文庫、2013年、初刊は2008年)
(2015年12月15日)
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