- 相澤
Habari za Dar es Salaam No.112 "Tembea Kariakoo (2)" ― カリアコー散歩 (2)―
根本 利通(ねもととしみち)
大雨季も明け、涼しくなった6月4日(土)、再度カリアコーをテンベアしてみた。今年は大雨季明けが遅れ、この日も朝にちょっとパラつき、午後にも降った。完全に明けきっていない気配だったが、散策には問題なかった。 「ダルエスサラーム通信」第108回の続編である。 2月の散策も土曜日の午前中で、今回も同じ。平日とは違って人が少ないというのが、狙いである。それでも車も人も多いが。
確かに美味しいし、賑わっていて、お客の回転も早い。近所のおじさんといった感じのインド人も来ている。自宅での朝食より、ここの方が美味しいに違いない。ただ、チャイとスナック3品で、合計2,000シリングは高いなぁと思う。街中の路上のチャイなら700シリングくらいだろう。2,000シリングも出せば、ちゃんとした昼食が食べられる。朝食に毎日は無理だろうと思う。
さて、腹ごしらえして、カリアコーに向かう。今回の目的は、カリアコーをベースとした、2大スポーツクラブであるヤンガとシンバのクラブハウスを眺めてみること。ついでに知り合いの人がやっている店を訪問することであった。
Sikukuu Streetを北上したのは、シンバのクラブハウスが、Morogoro Roadの北側にある消防署に近い一角にあると聞いたからだ。そのまま北上し、Msimbazi Streetという大通りに出て、路傍でおしゃべりしている男たちに訊くと、「なんでここまで来たんだ?警察署の先さ」と言われ、Msimbazi Street沿いに南下する。ヤンガのクラブハウスの近くまで来ていたから、遠回りしたことになる。警察署の近くというのは、私の遠い(20年くらい前)記憶にあったのだが、最近移転しているかもしれないと思い、オフィスの若いスタッフに確認したのだ。「消防署の近く」と答えたそのスタッフの興味は音楽で、サッカーではないようだ。
シンバ(Simba)スポーツクラブのクラブハウスと言われた建物にたどりついたが、下から見上げると、どう見ても改装中で、人はいないように見える。うろうろしていると、おじさんが出てきて、現在改装中で、その隣にクラブハウスはあると教えてくれ、遠慮するのに中まで案内してくれる。
クラブハウスの受付には、おじさんが一人座っている。その部屋には、シンバの優勝記念写真だらけ。1936年創立、タンザニアの一部リーグ(現在はプレミア・リーグ)優勝17回を誇る名門チームだ。CAF(アフリカ・サッカー連盟)カップでも、1993年には準優勝した。昨年のリーグは優勝。今年終了したリーグ戦は、ヤンガに次いで準優勝だった。その写真の中に、現在のクラブハウス(正確には現在改装中の隣の建物)が、1971年7月31日に、当時のアベイド・カルメ第一副大統領によってオープンされたことを記す銘があった。
再び、Msimbazi streetに戻り、今度はヤンガのクラブハウスを目指す。通りの名は、Jangwani street。カリアコー地区の中で、ムシンバジ通りの北西側はジャングワニ地区と呼ばれる。カリアコー地区の中では、比較的遅れて開発された周辺部である。といっても、ダルエスサラームの下町の中では古い地区だ。
スワヒリ風家屋というのがある。表にはバラザというベランダがあり、男たちが談笑していたり、バオというゲームをやっていたりする。玄関を入ると、中央の廊下の両脇に部屋が3つずつ、計6部屋ある。廊下を突き抜けるとウワニという中庭があり、そこで女たちが料理をしている。トイレとかシャワーはここにある。カリアコー地区の家は、ほとんどこの平屋のスワヒリ風家屋(長屋)であったはずだが、中心部は近代化というか、商業化の波に乗って、高いビルが建てられだして、古いスワヒリ風家屋はほとんど姿を消した。しかし、ジャングワニ地区には、まだけっこう古い家屋が残されている。
Jangwani streetのどんつきに、ヤンガのクラブハウスはある。Young African Sports Club、通称Yangaである。遠くからでもはっきりわかるクラブカラー(黄色と緑)に塗りたくられている。近づくと立派な建物で、練習用のグラウンドがある。これは、その昔、カウンダ・スタジアムといって、公式戦にも使われていたはずだ。今は、かなり荒れていて、フィールドもでこぼこしており、試合に使うなら整備が必要かと思われる。
ヤンガのクラブハウスの写真を外から撮っていると、中から青年が手を振って招く。中を案内してくれるという。シンバの仮のクラブハウスとは比べものにならない広さ。PCを使って仕事をしている秘書のような3人に挨拶して、クラブ内を回る。会議室、ジム、プールまである。案内の若者は、1990年代には日本人の会員もいたという。隊員さんだったのだろうか。入会金Tsh3,000、年間会費Tsh12,000だそうで、初年度はTsh15,000(現在約$10)で会員になれる。どちらかというと素っ気なかったシンバと比べ、ヤンガの方が勧誘が盛んだ。
考えたら、タンザニアに27年も住んでいて、ヤンガ・シンバ戦を見たことがない。いはば、野球の巨人阪神戦のようなものだが。ヤンガ・シンバ戦の当日には、黄緑のヤンガカラーと、赤白のシンバカラーの旗をつけたダラダラ、タクシーが走り回り、試合後は勝った方はもちろん、負けた方も大騒ぎになる。どちらが巨人で、どちらが阪神だろうか?ヤンガの方が泥臭く一般庶民のファンが多く、シンバ・ファンはどちらかというとエリートが多いようだ。だからシンバが巨人かとも思うが、豊富な資金に物を言わせ、地方の人気チームから有望な若手を引っこ抜くのはヤンガが多いようだから、巨人的でもある。
その歴史をひもとけば、ヤンガは地元ジャングワニの農民、漁民の若者たち、シンバは小学校卒業で、公務員、学校の先生という当時のインテリ、エリート、ダルエスサラームの外からの人たちが多かったそうだ。TANUやASPの独立運動の会合などの使われたのは、ヤンガのクラブハウスが多いとされる。また、ザンジバル革命の前夜カルメが隠れていたとされるのも、ヤンガ系の大物の家らしい。ヤンガのカラー(黄色と緑)とCCM(その前身のTANU)カラーとは同じである。ヤンガ・シンバ戦は、何とか機会を作って国立競技場まで、ヤンガ・ファンのタンザニア人の友人と見に行きたいと思う。
この次のヤンガ・シンバ戦は8月だと、ヤンガのスタッフは言っていた。8月は観光シーズンの真っ最中だから行けないなぁと思っていたら、なんと7月10日(日)に試合があった。これは東中部アフリカ・クラブ選手権で、ケニア、ウガンダ、エチオピアなど11ヶ国のクラブ13チームが参加した。ヤンガとシンバ゙はタンザニアを代表して参加したら、両チームとも決勝に勝ち上がった(準決勝はどちらもペナルティー合戦での疑問の判定での勝利だったが)。私はテレビ観戦だったけど、タンザニア中(おそらく)盛り上がっていたね。結果はヤンガが延長戦で1-0で勝った。
このKongo streetと、中央市場の南側を通るTandamuti streetの交差点周辺には、衣料品店が多く軒先を連ねる。そのKongo streetに面したところに、知り合いのタンザニア人女性の店があった。三姉妹で、末の妹が、私の知り合いの日本人と結婚している。その姉二人がやっている衣料品店だ。キリマンジャロ州出身のパレ人ムスリムである。
この姉妹の店は同じ一角に2つある。最初の店は、道路からさらに細い通路を入った中にあり、間口2m、奥行き0.5mくらい。2番目の店は道路に面していて、間口3m、奥行きも1.5mくらいありそう。店の借り賃は、最初の店が月40万シリング、2番目の道路に面した店は、100万シリングを超えると言っていた。これでは回転早く、稼がないといけない。
姉妹は、買出しにタイ、中国、トルコに出かけているという。店の売り物は、華やかな女性用ランジェリー、つまり下着屋さんだ。売り子の若い女性は、ムスリムらしくスカーフを被っている。私があれこれ眺めたり、質問したりするのはちょっとためらわれるお店ではある。
もう一人の知り合いの店は、店賃が高すぎで、閉めてしまったという。栗田さんの本に載っている店の中でも、もうないのがあるかもしれない。かなり競争は激しそうだ。ほとんど同じようなものを売っているように見える。隣の店から拝借してきて、お客に売ることもよくある。従って、価格もそうだが、どうやって商品を差異化するかが大変だろうと思う。同じ民族、知り合いに売っていればいいというわけにはいかない。
チャイナタウンが出現するかもというような中国人の店が集中している場所はまだ見ていない。中国人の姿は時々見かけるし、中国人が店番をやっている店も数軒見かけた。が、チャイナタウンにまでは到底近づきそうもない。まだまだ、カリアコー散歩が足りないようだ。
☆参考文献☆ 栗田和明『アジアで出会ったアフリカ人』(昭和堂、2011) 鶴田格「ダルエスサラームのアフリカ系住民社会における遊びと政治」(東京外国語大学『アジアアフリカ言語文化研究』55号、1998) Tadasu Tsuruta "Simba or Yanga? Football and urbalization in Dar es Salaam"(Mkuki na Nyota Publishers,2007) Mohamed Said "Maisha na Nyakati za Abdulwahid Sykes (1924-68)"(Phoenix Publishers,2002)
(2011年8月1日)