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Habari za Dar es Salaam No.147   "Nusu Karne ya Muungano" ― 連合の半世紀 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 タンザニアはタンガニーカとザンジバルとの連合50周年を4月26日に祝った。その2日前の24日にダルエスサラームの幹線道路にさまざまな写真の看板とタンザニアの国旗2本をはためかせた宣伝が一斉に出た。わずか2日前である。国中挙げての祝賀行事という雰囲気には程遠かった。

📷 ダルエスサラームの街中に出た祝賀の看板と国旗 (2014年4月24日)  これは4月25日に野党などのボイコットで混乱のうちに中断した制憲議会(終了せずに8月5日から再開となった)の状況が反映しているのかもしれない。制憲議会での焦点は憲法改正草案にある「三つの政府」への変更か、現状の「二つの政府」維持かであった。それはとりもなおさず、ザンジバル自治政府の地位をどうするかということで、50年間続いた連合の見直しをするかどうかということだった。

 与野党の議論になったのは、1964年4月に結ばれた連合協定は有効だったのかということだ。この議論はかねてから一種のタブーとして存在していた。この通信でも触れたことがあり、「ニエレレとザンジバルとの連合の問題」を参照してほしい。協定の原本を誰も見たことがないということで、その所在(国連に送られたという説)、署名の真偽、存在の有無すら議論された。

 タンガニーカ側の証人としては、元国会議長のピウス・ムセクワが発言した。ムセクワは50年前の協定の際は国会の書記で、大統領のニエレレ、国会議長だったアダム・サピと共に、タンガニーカ側の連合協定の批准書に署名している。ムセクワいわく、連合協定はニエレレとカルメの秘密交渉で進められ、その背景には革命後不安定だったザンジバルのカルメ政権の反革命派による転覆に対する恐怖があったという。ニエレレはアフリカの統一、具体的には東アフリカ連邦の創設を意識して時間をかけることも考えていたが、カルメは「一つの政府」案すら口にしたという。

 ザンジバル側の証人は、元ザンジバル革命政府の書記であったサリム・ラシッドである。彼はザンジバル革命の生き証人としても登場している(「ザンジバル革命50周年」参照)。ラシッドは連合協定、タンガニーカ政府の1964年法令22号に相当するザンジバル側のものは大統領令のはずだが、そんなものは存在しないと断言する。当時、ザンジバルに議会はなく革命評議会だったが、その第一書記であったラシッドとカルメ大統領が署名して大統領令として発せられ、閣僚会議に回されるのが手続きだった。ラシッドは連合協定の第一次草案は見て、いくつかの意見を言ったという。しかし、その後その草案がダルエスサラームに行った後は知らないという。ニエレレはザンジバル側の人間の関与を嫌い秘密で進め、ザンジバルの司法長官にも関与させなかったという。

 議論が沸騰し、流言飛語が飛び交ったせいだろうか、4月14日にようやく政府の総務次官が連合協定の原本、1964年4月22日付のニエレレとカルメの署名入りのものをマスコミに提示した。政府のどこに保管されているかは明かさず、「将来は博物館において国民が見られるようにする」と述べた。しかし、野党は納得したわけではなく、署名の真偽を疑ったり、「ニエレレとザンジバルとの連合の問題」の著者であるイッサ・シヴジがCCMの主張である「二つの政府」を支持するのを「偽善者」「二枚舌」などと攻撃した。

 さらに、「二つの政府」を支持する与党議員(首相府国務大臣)が、「三つの政府」になると連合政府は軍人の給与が払えなくなるから、クーデターが起こるかもしれないと教会で発言したのが漏れた。また「三つの政府」案を支持する野党グループ、特にザンジバル人に対して、国会内で人種・宗教差別的な攻撃があったらしい。そこで4月16日の野党グループが一斉に議場を退去するボイコット戦術に出て、制憲議会は野党グループ欠席のまま、4月25日中断した。ザンジバル「連立」自治政府の第一副大統領マリアム・セイフ・ハマドは野党CUFの書記長でもあり、「ザンジバル政府のことはザンジバル人が決める」と発言した。そういう騒然とした雰囲気のなかで迎えた「連合の半世紀」だった。

📷 連合協定の原本を提示する連合政府高官 『Mwananchi』2014年4月15日号

 連合50周年の記念式典は近隣アフリカ諸国の元首8人が参加して、ダルエスサラームで挙行された。現役の元首が来たのはケニア、ウガンダ、ブルンジ、コンゴ(民)、マラウィ、モーリシャス、レソト、スワジランドで、国境紛争を抱えているマラウィは来たが、険悪な関係になっているルワンダは来なかった。政府の公式声明や、与野党の駆け引きは措いて、民衆がどう思っているかを見てみよう。  以下は4月1日、26日、27日、5月3日の英語紙『The Citizen』とスワヒリ語紙『Mwananchi』に載った実名入りのインタビューの統計である。両紙は同じ経営であり、またインタビュー対象者が教員、NGOメンバー、地方公務員などやや知識人層にサンプルが偏っているかもしれないが、全国的なインタビュー調査であるのが興味深い。対象は59人(うち男42人、女12人、不明5人?)、調査対象州は15州+α(不明あり)、ただしザンジバルは入っていない。

 各人の意見を単純化して分類するのは難しいが、基本的に現行の連合(二つの政府)をよしとし続けるべしとしているのが23人、現行の連合に問題があるので何らかの変更(三つの政府、もしくは一つ政府)を検討すべきだというのが27人、連合に利益はないと否定的なのが9人だった。連合に利益がないというのと、解消すべきとまで踏み込んだのは分けた方がいいかもしれないが、そういう意見はドドマ、マラ(ニエレレの地元)、ルヴマという内陸部に多いのが特徴だった。この調査にキゴマ、タボラなどが含まれていないが、そちらでも否定的な意見が出るだろうか。

 4月27日の『The Citizen』にはほのぼのとした記事も載った。1964年、ニエレレがタンガニーカとザンジバルの土を混ぜて連合を象徴する儀式を行った。その写真は情報省のアーカイブにありよく使われているが、その写真に出ているニエレレに器を捧げるの若者(男性)とそれを見守る女性の現在である。正確にはこの儀式にはタンガニーカの男女2名とザンジバルの男女2名が参加した。ザンジバルの男性はハッサンとしか分からず、女性はハディージャ・アッバスであったそうだが、その2人の消息には触れられていない。またこの式典が1964年4月26日に行われたと書かれてあるが、それは間違いだろう。

 インタビューに応じているのは、タンガニーカ側の若者2人(当時)。女性はシファエル・シーマさん(81歳)、男性はエリサエル・ムレマさん(75歳)で共にキリマンジャロ州に健在である。シーマさんは当時、マチャメ女子中学校の唯一の黒人の先生であった。突然選ばれて、ダルエスサラームに着き、式典のリハーサルを行った。式典に着た服は採寸され、短期間で作られたという。ムレマさんは当時TANUの青年パイオニアであり、軍事教官でもあったという。彼の指名は2週間前で、理由は分からないと言う。タンガニーカとザンジバルの女性が、それぞれの土の入ったヒョウタンをニエレレに渡し、男性二人が捧げ持つ壺にニエレレがその土を注ぎ混ぜた儀式は無事に終わった。その土はダルエスサラームの大統領官邸の一角に撒かれ、そこにタンガニーカとザンジバルのマンゴーの苗木が接ぎ木されて植えられ、50年後の現在も健在であるという。

 お二人は高齢であるが、シーマさんはマチャメの中学校の教員・校長を務めて1993年退職した後、マチャメのホテルの現役のマネージャーをしているという。ムレマさんの現在には触れられていないが、自宅で農業をやっているらしい。お二人とも50年前に式典に参加したことを誇りに思いつつ、現在の連合の議論についてこう語ったという。「連合を解消、もしくは三つの政府に分けようとする人たちの多くは、国ができてから生まれ、平和と愛のなかで育った。彼らは自由の果実を享受しているけど、それがどこから来たのかを忘れている」「そういう知識人、政治家たちは非常に賢くて欲深なのだ」と。

📷 1964年の式典 タンザニア情報省アーカイブ 📷 2014年のお二人 『The Citizen』2014年4月27日号

 5月12日の予算国会のなかで、ザンジバル政府には海外からの援助・借款の4.5%の割り当てがあるはずなのに、2013/4会計年度は2.8%しか渡っていない。ザンジバルは連合政府にお金を奪われていると批判した野党議員(リス)がいた。その演説のなかで、ザンジバルの初代カルメ政権の治世下で秘密裁判で殺されたカシム・ハンガやオスマン・シャリフなどの6人の実名を挙げて、「連合政府の樹立に貢献した創設者たちは何の罪があって殺され、その墓場も知られていないのはなぜか?」と追求したという。またここで大いなるタブーが破られたとびっくりした。

 リス議員は、Ghassany著の『さらば植民地、さらば自由!』の記述をもとに追及したらしい。この本は2010年亡命アラブ系ザンジバル人によって出されたものであるが、恨み節ではなく生存者への綿密なインタビューに基づき、ザンジバル革命から連合に至る過程を追っている。結論としては、ザンジバル革命はタンガニーカによる攻撃・植民地化であったとし、連合もその流れで捉えている。この検証は政治的な駆け引きではなく、歴史家の手でなされないといけないだろう。少なくともザンジバルの古文書館にある革命の写真のなかで、その後反革命とされ処刑された人たちの顔が消されているような歴史の改ざんは修正されないといけない。

 4月24日、2本のタンザニア国旗の旗がひらめいているダルエスサラームの街中を、妻が運転手Aさんと走っていた時のことである。「国旗2本並べるのなら、1本はザンジバルの国旗にすればいいのに」とその40代後半のAさんは言ったそうだ。その翌日、私は別の運転手Mさんとその2本のタンザニア国旗を見て、「タンガニーカとザンジバルの国旗にすればいいのに」と言ったら、30代後半のMさんに「えっ、タンガニーカの国旗なんてあるの?」と訊かれた。「そりゃ、あったさ。タンガニーカという国が3年間あったんだもの」と答えたが、Mさんはびっくりしていた。日本映画「ブワナトシの歌」に出てくるタンガニーカ独立の時に、ウジジで掲揚されたタンガニーカ国旗を見せてあげたら、Mさんは携帯電話で写真を撮っていた。

 考えたら50歳以下の人たちはタンガニーカという国家を知らないのだ。2012年の国勢調査の段階で、タンザニアになってから生まれた人は91%を占めていたという。いや、50代半ばの人たちでも物心つくまでにタンザニアになっていたわけだ。制憲議会の議論でも、40代に見えるタンザニア本土出身の女性議員は「私はタンガニーカなんて知らないし欲しいなんて思ったことはない」と言っていた。

 記念日の数日前のインタビューでキクウェテ大統領は連合が50年続いたことを誇り、ガーナ・ギニア連合、エジプト・リビア連合、セネガル・ガンビア連邦が長続きしなかったことと比較していた。かつてエジプトとシリアの間で存在したアラブ連合のことを思い出す。パンアフリカニズムやパンアラビズムの理念を語っても、実現したり、あるいは実現しても長続きした例はほかにはない。ニエレレの理想で実現し、執念で半世紀存続してきたタンザニア連合共和国は実体なのだ。街中に掲げられた看板の文句はさまざまだったが、そのなかに「Utanzania wetu ni Muungano wetu」というのがあった。「われらがタンザニア人性の現れはわれらが連合」とでもいうのだろうか。アフリカ合衆国はともかくとして、射程に入ったようでなかなか進まないEAC(東アフリカ共同体)の統合の道のりとも比較してしまう。

📷 タンガニーカの国旗のTシャツを着る女性 『The Citizen』2014年4月20日号  ザンジバルの人には、ザンジバルという国家が失われたという思いはあるかもしれないが、自治政府も旗もあり、大統領も大臣もいる。一方、タンガニーカは全く実体がなく、50歳以下の人たちはほとんど意識したことがない。それは巨大なタンガニーカが小さなザンジバルを呑みこんだ、つまり併合したような形であるからかもしれない。征服した人間には、された人間の悲哀はわからない。

 ただザンジバルが従属させられているというのは当らないだろうと思う。人口比ではタンザニア本土(タンガニーカ)とザンジバルは33:1である(2012年国勢調査)。選挙区選出の国会議員の数は3.8:1である(2010年総選挙)。正副大統領の片一方は必ずザンジバルから出ることになっていて、多くは副大統領であるが、過去4代の大統領のうち第2代ムウィニはザンジバル出身である。少なくとも政治面ではかなり優遇されているように見える。

 しかし、それでもザンジバルの野党(CUF)の政治家は「面積が小さくても、人口が少なくても対等の国家としての待遇を」と主張する。そして、与党(CCM)はそれに対して、人種的偏見をこめた古くからの攻撃をするのだが、実際にザンジバル人の世論では60%が現行の連合の見直しを支持しているという。この世論の数字は曲者で、確実な根拠があるとは思えないのだが、それでもCCM支持者のなかにもザンジバル自立論は根強いと思われる。

 ザンジバル人の底流には、イスラーム諸国会議への加盟、湾岸諸国特にオマーンやアラブ首長国連邦、カタールなどの援助を得て、さらに最近有望になった海上の天然ガス・石油の採掘、自由貿易、観光の活性化で経済発展を図ろうという気持ちがある。自由貿易港の戦略でうまくいくとは思えないし、外資に従属させられる可能性が高いと思うのだが、「三つの政府」による連邦国家化は、近い将来のザンジバルの分離独立につながるだろう。古来からの「風待ちのコスモポリタンな島」の住民たちが、自分たちの手に自分たちの運命を回帰させることを選ぶのであったら、無責任ながらその先行きを見てみたいとも思う。

 まったくの余談だが、NHKの国際放送「ラジオジャパン・スワヒリ語放送」もこの4月に放送開始50周年を迎えたという。この連合と同じ半世紀を迎えた。当時スワヒリ語がそれほど注目されていたとは思えないので、先人の目の確かさに敬意を表したい。NHKといえば現在はあの会長さんの話題で、日本にいたら受信料不払いものだろうが、商業放送ではできないことをしっかりやってきたのだ。

☆参照文献・統計☆  ・『Mwananchi』2014年4月1日~5日、7日、11日、13日、15日~17日、26日、27日、5月13日号  ・『The Citizen』2014年4月1~4日、6日、7日、11日、15日~17日、19~21日、26日、27日、30日、5月3日号  ・『The Daily News』2014年4月26日号  ・Issa G. Shivji"Pan-Africanism or Pragmatizm?―"(Mkuki na Nyota Publishers,2008)  ・Harith Ghassany"Kwaheri Ukoloni,Kwaheri Uhuru!"(2010)

(2014年7月1日)

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