根本 利通(ねもととしみち)
今回は、タンザニアの憲法改正案第二次草案の審議の経過と結果をまとめてお伝えするべく準備していたのだが、9月も下旬になって大きな変化があり、どうも結論が出なくなった。10月にずれこむことになったので、まとめは来月に繰り延べすることにして、今月はタンザニアを舞台にした児童文学の話をしたい。
ハンナ・ショット作、佐々木田鶴子訳、齊藤木綿子絵『ただいま!マラング村 タンザニアの男の子のお話』(徳間書房、2013年9月刊)である。原作はドイツ語で"Tuso, Eine wahre Geschichte aus Afrika"、2009年にドイツで刊行された。
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本書の目次は次のようになっている。
1 うちをでる
2 夜中の自動車道
3 ピーナッツのぬすみ方
4 おにいちゃーん!
5 友だちができた
6 バスにもぐりこむ
7 とんでもない考え
8 もう、おなかがいっぱい
9 寄宿舎で
10 マラング村へ
お話であるから、あらすじはごく簡略に紹介しよう。キリマンジャロ山麓で生まれたツソという少年が、両親を失い、4歳の時村を出て、モシ、ダルエスサラーム、アルーシャ、ナイロビなどを放浪し、いわゆるストリートチルドレンの生活から、教会のシスターによって救い出され、寄宿舎で学び、やがて故郷のマラング村を再訪するまでの話となってる。
巻末の「作者あとがき」には実話であると書かれており、寄宿舎に来た時(8歳?)と、2009年で16歳のツソの写真が載せられている。しかし、お話として非常によくできた物語で、美しい挿絵と相まって、上質な児童文学になっていると思う。
本書の存在を知ったのは、未知の大学の先生からいただいた問い合わせのメールによる。この本が2014年の青少年読書感想文全国コンクールの小学校中学年の部の課題図書になっているから、マラング村を見てみたいとのご希望だった。そこでウェブサイトで書評を読んでみたのだが、圧倒的に好意的なものが多いなかでかなり辛口のものが目に付いたので、慌てて知人にお願いして日本から運んでもらって読んだという次第である。従って、読む前からある一定の予断があったことは間違いない。あら探しにならないように気をつけたつもりだが。
辛口の書評は「アフリカ子どもの本プロジェクト-子どもの本で言いたい放題」(2014年1月16日)のものだ。少し長くなるが省略せずに、書評者のコメントを引用してみる。
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☆☆☆
みなさんがおっしゃるように、一見良さそうな作品で、好意的な書評もいろいろ出ているのですが、タンザニアに詳しい人に聞いてみると、あちこちに間違いがあるのがわかりました。遠いアフリカの話なので日本の人には間違いがわからないかもしれませんが、こういう本こそ、ちゃんと出してほしいと思います。
まずスワヒリ語をドイツ語読みのカタカナ表記にしてしまっています。カリーブ、ドーア、カーカ、バーバ、バーブと出て来ますが、スワヒリ語ではカリブ、ドア、カカ、ババ、バブと、音引きが入りません。白人のこともワツングとしていますが、ワズングです。ほかにも、p9に「ツソが水をくんでこないと、おばさんが、トウモロコシをつぶしてお湯でねった晩ごはんをつくれないのだ」とありますが、これは主食のウガリのことだと思います。とすると、乾燥してから碾いたトウモロコシを使いますから、不正確です。p12には「ツソは、大いそぎで、手のなかのおかゆを口にいれた」とありますが、これもウガリのことなのかもしれませんが、おかゆとは形状が違います。おかゆのようなものもありますが、それは手では食べずにコップに入れて飲むそうです。p10にはカモシカが出てきますが、アフリカにはカモシカはいません。
翻訳だけでなく原文にも問題があるかもしれません。p24に「お日様が昇る方向(東)にいけばモシがあり、ダルがある」とありますが、目次裏の地図を見るかぎり、モシはマラング村から西南の方向にあるようです。バスがダルエスサラームにつく場面では海が見えるとありますが、バスステーションからは海は見えないそうです。現地をよく知っている人は、バスの座席にもぐりこんで旅をする場面が、モシからダルまでは7~8時間もかかるのに、ずいぶんとあっさりした描写だな、とおっしゃっていました。またp106には「アルーシャのまわりの村には、まだ学校などないのがふつうだった」とありますが、アルーシャは大きな町なので、周辺の村でも学校はあるのではないかという話でした。欧米の作品だとみんないろいろ調べて訳すのに、そうでない場所が舞台だと、そのあたりがいい加減になってしまうのでしょうか?そうだとしたら、とっても残念です。こういう作品こそきちんと出してほしいのに。訳者の方は、現地に詳しい人に聞いたとおっしゃっていたのですが、どうしてそこでチェックできなかったのでしょう? たとえばウガリのことなどは、だれでも知っていることなのに。そういうせいもあってか、全体に、「かわいそうなアフリカ人の子どもが西欧の慈善団体のおかげで一人前になりました」という感じがにおってきて、私はあまり好感を持てませんでした。著者がどの程度、ちゃんとインタビューして、場所なども取材したのか、それも疑問です。
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原作者の誤解、そして翻訳者の誤解の両方があるのだろう。原作者はタンザニアを訪問し、主人公のツソにインタビューしているが、タンザニア国内の地理的関係とか、キリマンジャロ、アルーシャの教育状況はきちんと把握できなかったのだろう。物語の時代はツソ4歳の1997年から13歳の2006年までと思われる。2002年の国勢調査の数字によれば、キリマンジャロ州の就学率は86.0%、アルーシャ州のそれは69.6%であった(全国平均は67.2%)。
私が手にしているのは2014年6月の3刷のものである。そこでは、上記の批判(間違い)はほぼ直されている。これは2014年4月に出た2刷で直されていたらしい。スワヒリ語表記も直され、マラング村から見たモシとダルエスサラームの位置関係も訂正されている。さらに「カモシカ」と訳されていたのはおそらく原文ではアンテロープ類のことだったと思うが、苦肉の策か、なんと「ゾウ」になっている。翻訳で原文を訂正してしまったのは良心的であると言っていいのか、あるいは課題図書に指定されたため間違いの批判に敏感になったのだろうか。「アフリカ子どもの本プロジェクト」は出版社に申し入れを行ったらしいし、奥付には「編集協力:NGO タンザニア・ポレポレクラブ」とある。
さすがにそれ以上に踏み込んだ訂正はしていないように思う。つまり例えば、「アルーシャのまわりの村には、まだ学校などないのがふつうだった。」(P.106)などである。ダルエスサラームの町の描写、特に人びとの服装などにはダルエスサラーム在住者としては不満が残る。「アルーシャの町にはワズングがおおぜいいるのは、この町が、キリマンジャロの登山口になっているからだ。」(P.89)という文も間違いとは言い切れないが、やはり登山口の町というならモシの方がふさわしいだろう。最後の章でツソは寄宿舎からマラング村に歩いて帰るのだが、アルーシャの町からマラング村まで100km以上はあるので心配してしまう。もっとも寄宿舎はアルーシャの町中ではなくて郊外にあるようだから、きっともう少し近いのだろうが。そういった細部は文学作品としては気にしなくてもいいかもしれない。しかし、マラング村がキリマンジャロ・コーヒーの産地であり、またキリマンジャロ登山の最も主要な登山ルートの入り口であることがどこかで描かれていればもっと情感があふれただろう。
原著の題名は、『アフリカの本当のお話』とでも訳すのだろうか?ドイツ語が分からないので自信はないのだが、いかにも「遠~いアフリカで本当にあったお話」という感じがする。それを『ただいま!マラング村 タンザニアの男の子のお話』としたのは訳者、あるいは編集者の見識だろうか。タンザニアのことを書いた本でも、売るために「アフリカ」と題されることが多い日本の出版事情なのに、原著の「アフリカ」をあえて「タンザニア」にしてあるのは素晴らしいと思う。
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訂正できる間違いは措いておいて、本書の底流に流れるものを考えてみよう。「アフリカ子どもの本プロジェクト」の指摘する「西欧の慈善団体によって救われた子どもたち」という側面である。これはリヴィングストン、シュバイツェルの昔からキリスト教博愛主義者の活躍した場面だし、それを政治化すれば「文明の大義」という植民地化・帝国主義肯定の論理につながり、現代では「自立できないアフリカに支援を」という潮流であることはいうまでもない。
そういう政治的な側面を捨象しても、「支援があれば活きてくる才能や力が環境で埋もれてしまっているのは本当にもったいないし悲しい。こういう環境に居ざるを得ない子どもたちに少しでも支援できる事をしたいと改めて感じる。」「路上生活や労働から子どもを救う慈善事業をしている人に助けられるという何重もの幸運が重なってのことなのだ。そうでなかった悲しい命もどんなにたくさんあることだろうか。」というような感想が出てくるのは自然だろう。それが今まで自分が持っているアフリカ観を補完してしまうし、さらに実際の読者である子どもたちに保護者や教員が刷り込みをしてしまう恐れもある。孤児たちが盗みをしたり、施しを受けるだけでなく、例えば協力してマチンガのような行商人となって自立していく姿は見えてこない。
2014年の青少年読書感想文全国コンクールというのを調べてみた。学年ごとに5部門に分かれていて、課題図書は計20冊挙げられている。うち、各部門に理科系の課題図書があるので、文学系のそれはというと12冊である。驚くなかれ、そのなかでアフリカを舞台にしたのが3冊もあるのだ。この『ただいま!マラング村』以外に、『ミルクこぼしちゃだめよ!』が西アフリカ、『路上ストライカー』が南アフリカを舞台にしている。
実はこの事実は私が発見したのではない。本書の書評をウェブサイトで読んでいるなかで、「今年の課題図書の傾向として、アフリカを舞台にしたものがいくつかありました。今回のテーマになっているのでしょう。人種差別とか、貧困、自然との共生とか、スポーツによる人生の再生などがありました。」(熊太郎の旅と映画と読書感想文。2014年6月1日)で知ったのだ。アフリカが流行?と思って、読書感想文コンクールの課題図書を確認したら、確かにアフリカを舞台にしたものが3冊、そして海外を舞台にしたと思われるものがさらに6冊もあった。なんと文学系12冊のうち9冊が海外が舞台になっている!アフリカが3冊もあるのは嬉しいが、この海外偏重(?)と思われる風潮は何なんだろうかと考えてしまった。
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そこで次に今年の課題図書になっているアフリカを舞台にしたもう2冊の本を、日本から来る知人にお願いして手に入れてみた。小学校低学年用の『ミルクをこぼしちゃだめよ!』と高校生用の『路上のストライカー』である。
まず『ミルクこぼしちゃだめよ!』。舞台はニジェール。フラニ人の村に住む小さな娘ペンダが、大雨季で山の上に放牧に出かけているお父さんにミルクを届けるお話だ。ラクダのいる砂丘、仮面をつけて踊るお祭り、ニジェール川を舟で渡り、キリンの群れのいる草原を通り、山の上でヒツジの放牧をしているお父さんにミルクを届ける。
作者はブルキナファソの村に13年住む英国人で、宣教師でもある。挿絵はやはり英国人のイラストレーター。西アフリカのさまざまな自然、文化が描かれて、子どもたちに親しく感じさせる。ペンダが15頭のキリンの群れを見て「ここは動物園じゃないの」というせりふには無理があるけど。またハウサ人の仮面の舞踏というのを寡聞にして知らないので、少し調べたがよくわからなかった。
『路上のストライカー』はさすがに高校生用だけあって、夢見る心温まるアフリカではなく、厳しい社会の現実を描いている。ジンバブウェ南部(マシンゴ州)で生まれ育ったデオは、国内の政治権力闘争による虐殺を兄と一緒に逃れて、隣国南アフリカに住む。最初は国境付近の大農場に住み込んで働いていたが、大都会ジョハネスバーグを目指し、郊外の居住区アレクサンドラで外国人排斥の暴動に遭遇し、兄を失う。そして生き別れの父がいるというケープタウンでストリートチルドレンを集めたチームのメンバーとして、ホームレス・ワールドカップに参加するまでを描いている。
作者は南アのケープタウン生まれの劇作家・小説家。マイケル・ウィリアムズという名前だけでは人種は分からないが、ウェブサイトで見る限り白人のようだ。物語は2008年3月に行なわれたジンバブウェの総選挙の直後から始まり、同じ5月に起こったアレクサンドリアでのゼノフォビア事件を経過し、2010年5月のホームレス・ワールドカップ南ア大会(架空の大会らしい)までである。「グリーンボンバ」「グマグマ」「クウェレクウェレ」などの暗号、通称が飛び交い、少年たちいや大人にとっても過酷な暮らしが描かれている。ストリートチルドレンという舞台は『ただいま!マラング村』と共通している。
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『路上のストライカー』は措いて、児童文学と見なされる最初の2作品に戻って議論しよう。児童文学は、グリム、アンデルセンといった童話の延長線上にあるのだろうか?私は童話とか児童文学という分野には疎いのだが、昔話とか神話とかいった世界を別にすると、ドイツとか北欧というキリスト教のそれもプロテスタントの色彩のなかで育ってきたのだろうか?
この2作品に共通して底流しているのは、キリスト教的人道主義である。そのこと自体の是非は別として、西欧人が描いたアフリカの社会ということがやはり気になってしまう。慈善とか援助を批判することはできるが、その前にストリートチルドレンの存在という現実がある。基本的生活権、人権の問題、そして「子ども」という概念を発見したのは西欧の啓蒙主義であったのだとして、子どもの発達の保障のグローバリゼーションもやはり西欧起源の価値観で進み、児童文学もそれに影響されるのだろうか?そうすると欧米人や日本人が描くアフリカを舞台としたアフリカ人を主人公とした心温まる文学が、課題図書として選ばれていくことになるのだろうか?
アフリカ人の描くアフリカ人の子どもを対象とした児童文学というのはどういうものがありうるのだろうか?簡単に想像できるのは、じいさんばあさんが夜、火のそばで子ども(孫)たちに語る昔話・教訓話のようなものであるが、それを骨格にしたものではない児童文学は成立するのだろうか?児童文学という市場自体がまだまだ経済的に成立しないので、作家も登場しないのだろうか?日本はともかく中国や東南アジア、インドなどの状況はどうなのだろうか?
児童文学というジャンルに知識が乏しいので、?の羅列になってしまったが、図書で読む文学というものがアフリカのなかではなかなか成立しないという状況がある。アチェベ、ショインカ、グギといった草創期の巨人たちも国内の民衆相手ではなく、欧米人、国内の一部知識人に訴えた。グギのギクユ語で創作する運動は挫折したままだ。新しい世代のナイジェリア出身でアメリカ合州国在住のチママンダ・アディーチェなども果たしてアフリカ文学の範疇に留まるかどうかは疑問である。タンザニア国内では子ども用の図書は出版され、小学校などに配られはしているが、それもまだ一部に限られている。一般の親たちに「必要なもの」と認識されているかどうか。
ここで少し横道にそれる。前述の若手作家アディーチェの短編集のなかの『セル・ワン』を読んでいたら、ナイジェリア東部のスッカ大学の知識人(教員たち)の子どもたちは、「セサミストリートを観て、イーニッド・ブライトン(イギリスの児童文学作家)を読み、朝食にはコーンフレークを食べて育った」という文章があるのに出くわした。アフリカにおける児童文学について単に私が無知なのか、あるいはナイジェリアの方がはるかに強い英国の植民地支配を受け、その教養主義が根づいたのかと思ってしまった。しかし、どちらにせよタンザニアで豊かな児童文学が花開くより前に、インターネットの流れのなかで、児童図書は消え去っていくような危惧がある。
また蛇足を付け加えると、この読書感想文コンクールの主催者に毎日新聞社が入っている。毎日新聞の主筆・編集委員のなかに、元アフリカ特派員の方がいるから、今年の課題図書にアフリカを舞台にしたものが3冊も入ったのかと妄想してしまった。来年2月には発表される予定の表彰者(入選者)のなかで、この3つの作品が日本の子どもたちにどう受けとめられたか確認できるが楽しみだ。そして60回を迎えた青少年読書感想文全国コンクールの使命は終わったとならないように期待している。
☆挿絵は本書のなかから。
☆参照文献・サイト:
・「アフリカ子どもの本プロジェクト」2014年1月16日(http://members.jcom.home.ne.jp/baobab-star/dokusho/1401.html)
・「熊太郎の旅と映画と読書感想文」2014年6月1日(http://kumataro.mediacat-blog.jp/e99807.html)
・「読書メーター」 (http://book.akahoshitakuya.com/b/4198636788)
・マイケル・ウィリアムズ作、さくまゆみこ訳『路上のストライカー』(岩波書店、2013年)
・スティーヴン・デイヴィーズ作、福本友美子訳『ミルクこぼしちゃだめよ!』(ほるぷ出版、2013年)
・チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ作、くぼたのぞみ訳『明日は遠すぎて』(河出書房新社、2012年)
(2014年10月1日)
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