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Habari za Dar es Salaam No.162   "Nyayo za Mwalimu-2" ― ニエレレの足跡(2) ―

根本 利通(ねもととしみち)

 10月14日は初代大統領ニエレレの命日で、タンザニアでは休日である。毎年、「国の父」「先生(ムワリム)」を偲ぶ行事が行なわれる。今年(2015年)は没後16周年に当たる。ダルエスサラーム周辺で見られるニエレレの足跡を回ったのは2014年2月に報告した(「ニエレレの足跡」)。次はニエレレの故郷ブティアマ村かなと思っていたが、なかなか遠く未だ果たせていない。今回は、ニエレレの足跡と言っても、実際の土地ではなく、タンザニアという国家に残した足跡に触れてみよう。もっともタンザニアという国家はかなりの部分ニエレレによる創造なので、それをすべてカバーするのは無理なので、簡単にしたい。

📷 ニエレレの墓に花をたむけるCCM候補者 『The Citizen』2015年9月11日号  今年は5年に一度の総選挙の年で、今回の投票日は10月25日である。総選挙はもう終盤戦にかかり、独立以来54年間政権与党の座にあったTANU-CCMが、主要野党連合UKAWAの挑戦を受けて、厳しい闘いを強いられている。与野党とも「変化」というのを強く訴えている。そしてそこにはニエレレの存在が意識されている。毎回の総選挙でCCMの守護神としてニエレレ神話が語られるのだが、今年は与野党ともニエレレ神話を語っている。それはどういう側面なのか。

 今年の選挙の争点はいくつかあり、各党の公約には「水」「教育」「保健」「貧困」などの長年の課題が挙がるが、そのなかに重要項目として「汚職対策」も入っている。CCMの長期にわたる圧倒的優位体制(一党制時代を除いても、1995年の複数政党制下における総選挙からも4期20年)による、体制の金属疲労というか、政府・官僚の腐敗・汚職体制が深化・蔓延化していることへ対する民衆の不満だろうと思う。独立後、半世紀を経過したのに、水も電気も満足に供給されない。選挙前は政権与党のためにTANESCO(電力公社)は計画停電などをしないものだが、今回はダルエスサラームですら頻繁に停電が行なわれている。「変化」というスローガンもそういう状態に対するものと思われる。世論調査でトップを走っていた元首相に、過去スキャンダルがあるのを嫌ってか、与党が大統領候補から外し、汚職を攻撃していた野党連合がその人を候補者として担ぐという奇妙な構図になっている。

 汚職・腐敗批判の際に引き合いに出されるのは、指導者の倫理綱領に厳しく、自身も清廉で終始した故ジュリアス・ニエレレ大統領である。「ニエレレ時代に戻そう」とその時代の公安警察の長官とか、大使だった年配者が訴える。野党第一党のCHADEMAの若手エースとして汚職摘発で名を挙げたジットー・カブウェ元議員が、党を除名され自ら立ち上げたACT-Wazalendo(変革と透明性のための同盟ー愛国者)という党の方針には「ニエレレイズム」を標榜する。アルーシャ宣言の精神復興を謳う。さすがに企業の国有化は言わないが、主要公社企業の立て直し、土地管理庁の創立を主張する。外資の投資の管理や天然資源輸出の監督を主張する。そして、指導者の資産の公表など、汚職防止のための倫理的な綱領が目立つ。

 ニエレレにはマリア夫人との間に8人の子どもがいるが、その5番目にマコンゴロ・ニエレレという息子がいる。ほかの子どもたちは政治家になっていないのに、マコンゴロは1995年の総選挙になんと野党から出馬し、アルーシャ選挙区で当選した。しかし、CCMが選挙違反を提訴し、失格とされてしまった。その後しばらくは音沙汰を聞かなかったが、最近はCCM推薦の東アフリカ共同体議会議員を務めていた。そしてCCMの大統領候補指名に名乗りを上げたが、党大会で選ばれなかった。その後はダルエスサラームのカウェ選挙区の国会議員候補に手を挙げたが、これもワリオバ元首相の息子に負けて予備選で落ちてしまったが、CCMの選挙運動の応援には担ぎ出されている。彼なんかは「ニエレレ・ブランド」で話題になる。

 今回は、ニエレレと選挙という視点から歴史を振り返ってみよう。ニエレレが最初に直面した選挙は、独立前の1958年である。これはニエレレにとってというより、タンザニアが初めて体験した選挙である。タンガニーカ植民地の立法機関としては、1926年に設立された立法審議会があった。これは選挙ではなく植民地当局による指名制であり、当初はヨーロッパ人議員のみであった。その後、アジア人議員が参加したが、アフリカ人の議員が参加したのは1945年11月で、シャンガリ(チャガ人)とマクワイア(スクマ人)の首長だった。その後、サッピ(ヘヘ人)首長が1947年、さらに1948年タンガのムスリムの教員ムウィンダディが指名された。1954年6月にはニエレレも任命されている。1955年当時の立法審議会は「三人種同等論」と称して、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人各10人の民間議員と、政府委員23人から構成されていたから、実質的にヨーロッパ人支配を延命させ、アフリカ人多数派支配を遅らせる役割を持っていた。

📷 1958年総選挙前のルピア、ニエレレ、ムテンブ 『The Citizen』2015年6月24日号  それに対してニエレレを委員長として1954年7月7日創立されたTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟)は戦いを挑むことになった。まずこの選挙は普通選挙とはほど遠い制限選挙だった。年間£150以上の収入、もしくは8年間以上の教育、もしくは指定された不動産の所有者など、収入も財産も学歴もない普通のアフリカ人は排除されていた。登録された選挙人の数は59,317人(36,874人という記録もあり)となっている。当時の推定人口が約900万人で、そのうち21歳以上の潜在的有権者数が半数だとすると、登録率は1%強に過ぎない。ダルエスサラーム市の登録者数は8,118人で、そのうちの過半数がアジア人で、10万人以上いたとされるアフリカ人人口のやはり1~2%程度しか登録されていなかったのだろう。さらに、1人3票制といって、一人の有権者がヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人のそれぞれの候補に投票する制度だったから、植民地支配の維持策と取れないことはなかった。また、ダルエスサラームなどに多く、独立運動の有力な担い手となっていたムスリムは植民地の学校における教育経験が低いため、植民地当局によるアフリカ人のクリスチャン高学歴者の抱き込み・分断策とも理解された。

 そこで、1958年1月のタボラ会議で、TANUはこの選挙への参加の是非をめぐって激論することになる。ムワンザ代表を中心とする急進派(と呼んでいいのか?)はこの条件で選挙に参加することは植民地当局に協力することであり、アフリカ人大衆に対する裏切りだとして選挙ボイコットを主張した。ニエレレを中心とする穏健派(?)執行部は、ボイコットすることはヨーロッパ人農園主たち主導の多人種協調主義を謳うUTP(統一タンガニーカ党)を利することになり、独立を遅らせることになると主張した。結局、参加派が勝つのだが、採決では37対23だったというようにボイコット派もかなりの存在であった。この決定に反発したアフリカ人純化路線のズベリ・ムテンブはANC(アフリカ人民族会議)を、また一部のムスリムはタンガニーカ・全ムスリム同盟(AMNUT)を結成し、TANUが率いていた独立運動は分裂することになった。

 1958年9月と1959年2月の2回に分けて争われた選挙は、TANUとUTPやANCとの対決となり、10州30議席を争ったが、ヨーロッパ人、アジア人の議席を含めて28議席をTANU推薦候補が占めて、独立への大きな弾みをつける結果となった(残りの2議席はTANUが推薦候補を擁立できなかったヨーロッパ人枠の2選挙区)。結局ANCもこの選挙に参加したのだが、ムテンブ自身が53票しかとれずに惨敗した。TANUの選挙参加に舵を切り、結果としてタンガニーカの独立を実現したタボラの会議の決定を、後日「タボラの知恵の選択」というようになる。

 1958/59年の総選挙で圧勝したTANUは、1959年自治政府、1960年独立を主張したが、植民地当局(ターンブル総督)はこの時でもまだ1965年独立を念頭に置き、隔てがあった。従って、ニエレレを首班とした内閣、自治政府の樹立はできなかった。12名の委員(大臣)のうち議会代表は5名だけで、依然植民地政府主導だった。TANU代表としてニエレレは入閣せずフリーハンドを保持した。この時TANUを代表して入閣したのは、ブライスソン(ヨーロッパ人)、ジャマリ(アジア人)、フンディキラ(ニャムウェジ人)、カハマ(スクマ人)、エリウフー(チャガ人)であった。

 2回目の選挙は1960年9月、独立の前年であった。今回は8年という学歴条件は撤廃され、文盲ではないことが求められていた。ほかの収入(£75)や指定されたオフィスで現在もしくは過去に働いていたという条件はあった。その結果、登録した有権者は885,000人と大幅に増加した。しかし、これでも資格のある潜在的有権者の半数程度だっただろうと言われる。つまり、条件を満たす資格はあっても登録しなかった潜在的有権者も多かったということだ。

📷 1960年総選挙で唯一敗れたTANU候補とニエレレ 『The Citizen』2015年8月5日号  この選挙では、アフリカ人代表が50名に増やされ、総議席71のうち、TANUは70議席を取った。残り1議席もTANUの予備選を勝ちながら、全国執行委員会で外された候補が無所属で出て当選した者であった。この時、TANUは予備選で敗れた首長を擁立して敗れた。これ以降TANU-CCMのタンザニアは今日に至るまで無所属候補の立候補を認めていない。また一党制時代を含めて予備選の結果を極力尊重するようにはなっているが、予備選トップの候補を外すことも稀にはある。それが現在は脱党、ほかの党への移籍の頻繁さにつながっている。

 ニエレレはもう1回、複数政党制での選挙を経験している。1961年12月に独立し、英国王を君主とする国の初代首相となったが、翌月には辞任して首相職をカワワに譲り、共和国制の大統領選挙に出馬した。1962年11月のことである。この時の登録有権者は180万人といわれる。そこでANCのムテンブ候補と対決し、1,121,978票(98.15%)対21,276票(1.85%)で圧勝した(ムテンブは1963年TANUに復党し、ANCはその後消滅した)。

 これがニエレレの複数政党制下での最後の選挙である、その後、1964年にザンジバルとの連合が成立し、1965年にはタンザニア本土での一党制に法的に移行し、1965、1970、1975、1980年と4回の一党制時代の選挙を経験する。国会議員選挙では、一党(TANU→CCM)が予備選を行い、2名の立候補者を出し、そのなかで争う。大統領は信任投票になり、ニエレレは常に90%を超える高率で信任された。ニエレレは、1985年に引退し、当時、ザンジバル大統領で、連合政府の副大統領であったムウィニに職を譲り、引退した。

 Thomas Molony著『ニエレレ-その前半生』という2014年英国で刊行された本を読んでいる。ニエレレは現在はマラ州ブティアマ県にいるザナキという小さな民族集団の首長の一人を父として生まれた。父には20人以上の妻がおり、このことがニエレレの母思いにつながったという。比較的恵まれた環境のなかで、ミッションの小学校からタボラの政府立中学校、ウガンダのマケレレ大学に進み、ディプロマを取得した。タボラのミッション中学校で教員経験を3年積んだ後、カトリック教会の支援を受けて奨学金を得てスコットランドのエジンバラ大学に進む。エジンバラ大学では、政治経済学、社会人類学、英文学、英国史、憲法学、道徳哲学を学んだという。

 本書は、エジンバラ留学時代(1949年4月~52年10月)のニエレレの思想形成に焦点を当て、新たな資料を発掘して論じている。その内容の検討・評価はもう少し時間をかけたいと思うのだが、通読してパッと思うのは、普通のアフリカニストだったら不満に思うかもしれないということだった。つまり「ウジャマー=アフリカ社会主義」思想の形成者として、ニエレレは政治家としてだけでなく、理想主義的な思想家・哲学者として、死後も尊敬を集めている。それがエジンバラ大学時代に選択したコースの参考文献の検討から、キリスト教志向に基盤を置いたフェビアン協会的な社会主義思想のアフリカ(タンザニア)版としていいのかどうか。

📷 1961年独立前のニエレレ 『The Citizen』2015年7月8日号  そのなかで選挙に関わるエピソードとして注目を惹くのは、この英国留学時代に見聞した2回の総選挙での労働党と保守党の政権交代についてである。1945年7月の第二次大戦終了後、英国の「福祉国家」建設に邁進していたアトリー労働党政権が、1950年2月の総選挙で僅差の勝利を収め、1951年10月の再度の総選挙でチャーチル率いる保守党に敗北して下野する2回である。ニエレレは「ウェストミンスター型の代議制民主主義のニ党制は、それ自身の経済階層(コミュニティ)を代表するだけで、民主的ではない」と感じ、そこから「一党制民主主義」の構想を抱いたのだろうか。ANCを破った直後の1963年1月のTANU党大会で「一党制民主主義」構想を発表している。

 ニエレレの理想を体現した「自力更生をめざす」ウジャマー社会主義は経済破綻で1986年には消え出し、また国民全体の利益を代表するとした「一党制民主主義」も1992年の複数政党制の復活で幕を閉じた。それでもニエレレの理想はタンザニア国民に希望と尊厳を与えていたが、いよいよその真価が問われているのだろうか。

 9月22日に総選挙に関しての世論調査が発表された。それによると、大統領選挙においてマグフリCCM候補が65%でトップで、ロワッサCHADEMA候補の25%を大きく引き離していた。CHADEMAを中心とする野党陣営は「世論の誘導だ」と強く反発し、ロワッサは「答えは10月25日に出る」と見栄を切った。調査を実施したのはTwawezaという中立系民主主義推進のNGOで、8月19日~9月7日の携帯電話による調査で、1,848人の回答を得たという。ただし、ザンジバルでは行なわれず、タンザニア本土の全州で実施したという結果だった。調査対象の選択方法は「全世界で調査機関で行なわれている方法」とされているが、都市部と農村部、年齢層、性別などの比率は不明だ。

 さらに24日に別の世論調査の結果も公表された。Ipsosという調査機関のもので、これは1,836人の対面調査で、期間は9月5日~22日、やはりザンジバルは含まれていない。こちらでもマグフリ62%、ロワッサ31%と2倍になっている。どちらの調査(TwawezaをA、IpsosをB)でも、女性のマグフリ支持率が男性より高い。女性ではマグフリ68%対ロワッサ22%(A)、67%対24%(B)で、男性のそれは62%対28%(A)、56%対39%(B)となっている。また都市部と農村部を比較すると、農村部の方がマグフリ支持率がより高い。農村部は66%対24%(A)、63%対30%(B)、都市部では61%対28%(A)、60%対32%(B)となっている。年齢層では若年層でやや接近しているが年配層(50歳以上)では76%とマグフリの支持が圧倒的に高い(A)。学歴別では、高学歴層ではロワッサが善戦している(A)。つまりロワッサの支持層は都市部の男性で若い比較的高学歴層ということになる。

 今回の大統領選挙は政党色を隠して候補のの個性で勝負をしたい与党と、一党支配体制を崩したい野党との戦いになっている。一方、国会議会選挙では野党の進出は確実だろうが、それがどこまで進むかであろう。前回の野党は54議席、占有率は22.6%だった。これも遡ってみると、11.2%(2005年)←12.5%(2000年)←19.8%(1995年)となる。1958年の選挙の3×10選挙区=30人から、71人(1960年)→106人(1970年)→119人(1985年)→130人(1990年)→182人(1995年)→189人(2010年)→215人(2015年)と選挙区選出のタンザニア本土の議員数は増えてきている(ほかにザンジバル選出が50人)。

 果たして、10月25日のタンザニア国民の回答(審判)はどうなるだろうか。新聞報道は総選挙一色だし、周りの知人たちも口角泡を飛ばすように議論していて、一見盛り上がっているように見える。だが、果たしてそうだろうか。というのは、前回(2010年)の総選挙は20,137,303人の登録有権者のうち、8,626,283人しか投票しなかった。42.8%と半分以下だった。これは過去の歴史を振り返っても最低だ。遡ると73%(2005年)、84%(2000年)、76%(1995年)となるという。一党制時代でも最低は72%(1970年)で、85%(1985年)という記録もある。最近の3回の補選は補選というせいもあるだろうが、33%、41%、26%という低率だった。民主主義というものに対する期待・信頼の疲れではないと思いたいのだが。さて、今回の2,370万人(9月24日、全国選挙委員会発表)の登録有権者はどう応えるだろうか。

☆参照文献☆  ・『Mwananchi』2015年9月23~25日号  ・『The Citizen』2015年5月20日、6月17日、24日、7月1日、8日、15日、22日、29日    8月5日、29日、9月11日、23~25日号  ・『The Daily News』2015年9月23日、25日号  ・John Iliffe "A Modern History of Tanganyika" (Cambridge University Press,1979)  ・Thomas Molony "Nyerere-The Early Years" (James Currey,2014)  ・Jukius K. Nyerere ”Freedom and Unity" (Oxford University Press,1966)  ・川端正久『アフリカ人の覚醒-タンガニーカ民族主義の形成』(法律文化社、2002年)  ・吉田昌夫『アフリカ現代史-東アフリカ』(山川出版社、2000年)  ・Mohamed Said "Uamuzi wa Busara wa Tabora" (Abantu Publications,2008)  ・G.H.Maddox & J.L.Giblin eds. "In Search of Nation" (James Curry, 2005)

(2015年10月1日)

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