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Habari za Dar es Salaam No.18   Death of Idi Amin ― イディ・アミンの死 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 いささか旧聞に属することだが、ウガンダの元独裁者イディ・アミンの死のことに少し触れたい。アミンは70年代の東アフリカを彩った人物であった。今は興味を持つ人は少なく、ひっそりと死んでいったが、70年代にアフリカ研究を志した人間として感慨がある。

 イディ・アミン・ダダは2003年8月16日、亡命先のサウジアラビアのジェッダの病院で、腎不全で亡くなった。享年78歳(80歳説もある)。亡命生活24年に及んだ、寂しい客死だった(と思う)。仇敵であったタンザニアの新聞の第一面を飾ることもなく、完全に過去の人物としてのささやかな報道だった。これがタンザニアの歴史42年間を通じ、唯一の対外戦争の相手で、タンザニア経済を崩壊に追い込んだ人物のこと とは思えない小さな死亡報道だった。当然翌日の市民の大きな話題にはならなかった(と思う)。

📷 The East African 誌 2003年8月18~24日号より

 アミンが世界の表舞台に登場したのは、1971年1月当時のウガンダのオボテ大統領が英連邦首脳会議に出席している際に起こしたクーデターで、ウガンダの実権者となった時からである(この時のクーデターの影の演出者はイギリスとイスラエルと言われた)。1925年、ウガンダ北西部のコンゴ国境に近い地域のカクアという少数民族出身で、イギリス軍東アフリカ・ライフル連隊に所属し、軍歴を積んだアミンは、1962年独立時にオボテ首相から陸軍副司令官に任命され、オボテがブガンダのカバカ(国王)を追放した際(1966年)には、 その襲撃軍を率いた。クーデターを起こした時には、軍司令官に昇進していた。

 アミンは政治家としては、大衆煽動型の政治家だったと言える。当時オボテが基幹産業の国有化を目指していたのに、その対象産業を減らしたり、株の取得の 比率を減らした。また自分が追放したブガンダのカバカの遺体(ロンドンで客死)を母国に運んで葬ったり‥。それが決定的に出たのが1974年のアジア人(ウガンダ国籍をもたないとされたインド系人)6万人の追放だろう。

 当時(1970年代前半)ウガンダのみならず、ケニア、タンザニアの東アフリカの経済は流通業を中心としてアジア人と呼ばれるインド系の人々に大半を握られていた。ナイロビ、モンバサ、ダルエスサラームといった大都市はもちろん、ニエリやタンガ、モロゴロ、ムベヤいった地方都市でも町の主要な商店はアジア人の経営であった。東アフリカ・シリングとして等価であった各国の通貨も、その当時の経済の実勢によって闇ドル市場が存在し、かなりの格差が存在したのだが、買い手はアジア人で、その入手したドルは海外に流れ、国内への投資に使われることは少なく、各国の経済発展を阻害していると言われた。もちろんことは単純ではないのだろうが、遅々として進まぬ発展、独立にかけたバラ色の夢が10年経って醒めかけてきた頃だったし、アジア人の存在は格好の標的とされたのだろう。「人種、民族、宗教による差別を克服する」建前のタンザニアでも、アジア系の人々は目立たぬように暮らしていた。ウガンダではアジア人が国民の不満の捌け口として使われたのだった。

 東アフリカのインド系の人々の国籍は、インド、パキスタン、イギリス、ケニア、タンザニア、ウガンダなどまちまちで、同じ家族でも出生地によっては国籍がちがうことがままあった(意図的に出生地を変えて保険を掛けている場合もあった)。ウガンダでも場合も、ウガンダ国籍を持たない人間が対象になったのだが、廻りに人間には国籍の有無など分かるわけはなく、結局ほとんどが追放の対象になった。混乱時につき物の、財産の略奪、婦女暴行などは枚挙に暇はなく、その後ウガンダ経済は「アフリカ人化」が簡単に達成できるわけはなく、長期の低迷期に入る。

📷

この間、イギリス国籍を持ったアジア人の保護をめぐってイギリスとの対立、援助の打ち切り、イギリス系企業の国営化など、関係は徹底的に悪化した。ウガンダ在住のイギリス人に輿を担がせて興じているアミンの写真が報道され、イギリス人に劣等感をもっていたアフリカ人には喝采を博した。ポピュリストとしてのアミンの面目躍如たるエピソードである。それ以外にも殺した政敵の内臓を食べたとか、ナイル川のワニに食わせたとか残虐なエピソードには事欠かないが、これが全て「アフリカ人の野蛮さ」の宣伝に使われた。アミンの支配下の8年間に殺された人数は40万人とも言われ、この間だけでなく、アミン打倒後にも延々と現在にいたるまで内戦は続き、ウガンダの繁栄は今だ取り戻せないでいる原因の大きな部分はアミンが作ったといっていいだろう。

ジンバブウェで白人所有の農場の占拠問題をめぐって、イギリスとジンバブウェの対立が始まって久しい。これは南部アフリカのおける植民地支配の負の遺産をどう処理するか、隣の南アではもっと大掛かりなことになるのだろうが、そういう基本的な歴史的な面と、独立戦争の英雄であったムガベ大統領が長期政権下に独裁君主化し、老残をさらしつつ延命を図っているという側面が大きいと思う。ポピュリズムの面があると思う。

 アフリカ人だからいいとか、「アフリカ人化」ということで正当化されたり、将来に輝かしさを感じられた時代は遠く過ぎ、アフリカが「援助」の対象としか見なされなくなって久しいような気がする。第三回TICADサミットでもそうした議論しかないのだろう。それは現実的な政治の中ではしかたないことなのだろうが、国際世論の均一化というか、情報操作の匂いを感じてしまうのは偏見なのだろうか?ブッシュマン戦争の積極的加担者たち各国首脳にポピュリズムの匂いを強く感じる昨今である。

(2003年10月1日)

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