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Habari za Dar es Salaam No.50   "Maji Maji Centenary" ― マジマジ 100周年 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ダルエスサラームの大雨季は明け、さわやかな青空が広がっている。今年の大雨季は長かった。例年より3週間ほど早い3月初めに大雨季に突入し、5月中旬にやっと終わった。5月に入っても重苦しい空の色で、終日降り続く日があり、その日ダルエスサラーム空港では90ミリの降水量を記録し、ザンジバルやモシでも40ミリ以上の記録だった。1984年から住み出して、今年で22回目の大雨季だが、私の当てにならない記憶では、3~4番目くらいの降りだろうと思う。ただ、だから豊作かというとそうでもないようだ。地方によっては降り出すのが遅れ、苗が立ち枯れになり、取り返しがつかなかった地方もあるようだ。食料の価格が気になるこのごろである。

 やや旧聞に属するが、今年2月の当地の新聞に「マジマジ100周年」の記事が載った。キクウェッテ大統領が参加した行事のニュースである。マジマジの反乱は1905年に勃発、1907年に鎮圧された反乱だが、そのどちらを採っても100周年とはならず、中間を採ったのだろうか、この時期にタンザニア政府が祝うのは何か意図があるのだろうかと興味を持った。

📷  まず、新聞報道を紹介しよう。2006年2月28日の「Daily News」の記事である。2月27日にルヴマ州ソンゲアのマジマジ・スタジアムで行われた「マジマジの反乱100周年記念集会」に、キクウェッテ大統領は主賓として参列し、ンゴニ人の長老から伝統的な槍と盾を授けられ、Nkosi(首長)に任じられた写真が第一面を飾っている。

 ソンゲアには、そこを本拠とするマジマジという強力なサッカークラブのチームがあり、またマジマジ記念博物館がある。この100周年記念行事は1週間にわたって行われ、27日がクライマックスだったようだ。キクウェッテ大統領は、「マジマジの英雄のように国を守り、身を捧げること」を訴えた。式典に参列したドイツ大使は「この反乱に対する残酷で受け入れ難い弾圧は、ドイツの植民地史の暗黒の一章として常に記憶される。このマジマジの戦争は、二度と起こしてはならない人道性に対する犯罪の別の例として、ドイツ人全体の記憶の中に常に残る」と述べた。マジマジ記念博物館補修のための850万シリング(=約85万円)の提供も表明された。このドイツ大使の発言は、別の複雑な問題を前提としているのだが、それは後で述べよう。 

 次にマジマジの反乱の概要を紹介しよう。日本語の一般に手に入る刊行物には、詳しく記述されていない。吉田昌夫「アフリカ現代史Ⅱー東アフリカ」(山川出版社)に5ページに渡り、簡単に記述されている。英文ではG.クワッサやJ.アイリフェの研究が有名であるが、アイリフェの大著「A Modern History of Tanganyika」(Cambridge University Press)の記述を簡単に要約してみる。下記の地図は、「東アフリカ現代史」のP. 80に掲載されている「マジマジの反乱の範囲」を借用した。

📷  マジマジの乱は1905年7月に始まった。ドイツによるタンガニーカ(現在のタンザニア本土)の植民地支配が始まって20年経過している。最初はドイツ植民会社という民間会社のによる統治だったが、アブシリの乱とかムクワワの乱といった初期の反乱を抑えるため、ドイツ政府が乗り出した。北部のルショトやキリマンジャロのように冷涼な地域では、白人の農民が入植し、コーヒーや紅茶などのプランテーションが始まっていたが、南部の比較的低地では、いろいろ試行錯誤の後、綿花が商品作物の候補として導入が考えられていた。植民地政府は、アラブ人の郡長(アキダ)などを通じて、綿花の栽培を奨励した。ただ綿花栽培は、村長の家周辺の畑への強制労働という形が多く、日数の増加、手当ての未払いなど、住民の不満は強かった。

 1905年7月、現在はリンディ州になるNandeteという村で、3本の綿花の木が引き抜かれたことから反乱は始まった。それには前奏曲があり、Nandeteからほど近いNgarambeという村に住んでいたKinjeketileというマトゥンビ人の呪術師が秘薬を生み出し、祖先との交信で得た特殊なMaji(スワヒリ語で水)を飲めば、ヨーロッパ人の弾丸でも溶かして傷つくことはないという信仰が密かに広まっていた。反乱勃発後、Kinjeketileはドイツ植民地当局によって絞首刑に処せられるが、彼が首謀者、扇動者であったという証拠はない。しかしこのMaji信仰は多くの呪術師たちによって、近隣の民族(キチ、ンギンド)に伝えられ、マトゥンビという一民族を超えた広がりを示しだす。当時のドイツ人総督ゲッツェンが綿花の強制栽培政策の責任者なのだが、当時ダルエスサラームより南部には588人の兵隊、458人の警官しかいなかったという記録にあり、慌てて兵隊の増派を行った。

 8月13日にリワレ(リンディ州)の県庁が陥落し、16日にイファカラ(モロゴロ州)が占領され、マヘンゲ(モロゴロ州)の県庁が包囲されると、かなり緊張感が高まる。ダルエスサラームでもアフリカ人の反乱を恐れて、ドイツ人の自警団が夜パトロールをしたようだ。実際には反乱は広がらなかったが、タボラ、ムワンザ、ムソマなどでも噂が広がり、緊張があったようだ。

 南部地域には、Majiを携えた呪術師が使者として往来し、ムウェラ、マクア、マコンデ、ポゴロ、ムブンガ、ベナ、サガラ、ヴィドゥンダ、ルグル、パングワ、ンゴニ、マテンゴ、ニアサなどの民族が反乱に加わった。首長を戴かない民族は比較的多く参加し、首長国があった民族では、首長一族の内紛などで敵味方に分裂したところもある。また隣接する民族との対立関係からドイツ側についたヤオ、サンガや、ムクワワの反乱の傷が癒えず、民族の統一が取れていなかったヘヘもドイツ側についた。現在の州名で言うと、コースト、モロゴロ、リンディ、ムトワラ、イリンガ、ルヴマという南部を巻き込んだ大反乱になった。

 特に強力な軍事組織をもっていたソンゲア周辺のンゴニの首長Chambrumaの参加は大きなインパクトを持ち、他の民族の抵抗が鎮圧される中でも、最後まで反乱の中心となった。しかし、民族を超えた反乱といっても、統一された軍事行動であったわけではないので、海外からの増派をうけたドイツ軍の近代兵器のまえには、Maji信仰だけでは勝ち目はなかった。多くのリーダーは戦闘中射殺されたり、捕らえられて処刑されたり、モザンビークに逃げ込んだりし、組織的な抵抗は1906年には終わった。最後まで逃げていたベナの首長Mpangireが殺された1908年7月には完全に鎮圧された。

 この反乱は25~30万人の犠牲者を出した。内、ヨーロッパ人は15人、植民地当局側のアフリカ人兵士は73人という数字である。ゲッツェン総督は焦土戦術を命じた。つまり反乱地域の村を焼き払い、集団キャンプに閉じ込め、食料は徴発し、耕作を禁じた。明らかに飢餓を引き起こし、組織的抵抗が止んだ後でもゲリラ戦術で戦う反乱軍を飢え死にに追い込もうという作戦である。反乱の中心であったンゴニ人の地域で、食料が入手できるようになったのは1908年4月からであるという。この地域の住民の3分の1は減っただろうと言われる。集団キャンプから元の村に帰っても、家は焼き払われ、畑は森林と化し、ゾウを始めとする野生動物が闊歩するようになってしまった。イギリスの植民地となって設立されたゾウの保護区が、現在アフリカ最大の保護区セルーになっているが、そこはこの反乱を始めたマトゥンビ人、ンギンド人たちの故地である。マジマジの反乱は、タンザニアの歴史の中で最大の反植民地闘争で、民族を超えた連帯という輝かしい価値を持つが、一方で南部タンザニアの停滞の原因ともなったのである。

📷  マジマジの反乱を描いた文学作品がある。イブラヒム・フセイン作の戯曲「Kinjeketile」である。イブラヒム・フセインはスワヒリ語の本家本元の一つであるキルワ・キシワニに1943年生まれた。ダルエスサラーム大学在学中から習作を書き出し、俊英の作家として登場した。多くの戯曲を発表し、若くしてダルエスサラーム大学の演劇科の教授になったが、家族の健康上の問題で辞職した。その作品でKinjeketileがどう描かれているだろうか。「Kinjeketile」は1969年の出版で、イブラヒム・フセインの出世作(おそらく処女作)である。

 戯曲は4幕14場に分かれている。幕開けはルフィジ川沿いのNgarambe村での女たちの会話「腹が減った」「男たちは畑に駆り出されて帰って来ない」から始まる。Kinjeketileは家にこもって祈祷をしているらしい。強制労働からやっと帰ってきた男たちは集まり、「赤土」とあだ名されたドイツ人植民者に対して「戦争」をすべきかどうか議論している。村人にはマトゥンビ人が多いが、キチ人やンギンド人も混ざっている。武器の入手や他の人びととの団結を優先し、即時戦争に慎重論を唱える者は「臆病者」と罵られ、そこで民族の対立、けんかも起こる。

 第2幕でいよいよKinjeketileが家から出てくるが、おかしな行動を取る。太鼓を激しく叩き、その後川に姿を消す。沈んで出てこない。死んだものと家族や隣人が諦めた1日後、生きてそれも濡れずに川の中から登場する、取り憑かれた表情でお告げを口走る。「命の水」を与えられた、「赤土」を追い出せ、マコンデ、ザラモ、ルフィジ、ポゴロ、ンゴニに伝えよ…という形で劇は進む。Majiという「命の水」に対する信頼。精霊信仰。民族を超えた信仰の共通化。ダルエスサラーム周辺のザラモ人の首長の到着、強硬派と慎重派との対立、マヘンゲ県庁への攻撃、Maji信仰への疑い…、逮捕・投獄と展開する。

 イブラヒム・フセインによるとこの作品では4種類のスワヒリ語を書き分け、その当時のタンザニア社会の分裂と団結の様子を描いたという。呪術師として登場するKinjeketileが戦争を扇動する者として描かれるのではなく、「民族の統一」を主張し、戦争時期尚早論に立ち、またマトゥンビ人のリーダーが人びとの命の重さを訴えるなど、この作品が生み出された時代のタンザニアの息吹を感じさせる。ただ、戯曲はやはり読むよりも観るものだろう、目の前で舞台を観たらワクワクするだろうなと思わせるスピーディーな展開を示している。

📷  さて、上述したマジマジの反乱と現在のドイツとの関連に触れよう。2月27日発行の「East African」紙の記事である。「マジマジの正義」と題する記事である。そこではこのソンゲアで行われている100周年記念式典のことに触れ、249,530人の犠牲者に対する賠償問題が取り上げられている。ダルエスサラーム大学人文社会学部歴史学科のマプンダ博士(名前からしてソンゲア出身のンゴニ人である)の主張として、この賠償問題を国際司法裁判所に提訴するべく、タンザニアの最高裁長官のサマッタ氏のアドバイスを仰いでいるとしている。サマッタ氏は個人の資格で協力しているようだ。

 もし、この訴訟が実現すれば、サハラ以南のアフリカが、ドイツの植民地支配に対する賠償請求としては2番目のものになるという。最初は2001年9月に訴えが起こされ、昨年12月に2,350万ドルが支払われた、ナミビアのヘレロ、ナマ、ダマラの人びとに対する賠償請求である。これはアメリカ合州国の1789年の法律に基づいて訴えられたという。2001年南アのダーバンで開かれた反人種主義・差別国際会議に出席したキクウェッテ外相(当時)は、この訴えを明確に支持した。いわく「第一次世界大戦とか、ホロコーストのように人道に対する犯罪には、世界では賠償がなされている。なぜアフリカにはなされないのか?」

 この訴訟の動きには基本的に同感だが、他のことにも思いを馳せてしまう。ジンバブウェのムガベ大統領がやった白人農場の占拠の奨励は、ジンバブウェ経済をずたずたにしたが、これも原則はイギリスの植民地支配への賠償請求の論理だったろう。その論理は今うまく回転していない。また蒋介石により「賠償請求を放棄」され、朝鮮、中国あるいは東南アジアには、賠償ではなく、贈与、借款という形の経済協力をした日本は、きちんと「謝罪」をしたと見なされていないこと。これを日本人として逃げずに対応していかなくてはならない。また、ヨーロッパでは日本と対照的にドイツは謝罪し、戦争責任を取ったとみなされている。それはややもするとヒットラーーナチスというドイツのある部分に特定される嫌いがあり、ヒットラーと東条英機を比べることをトンでもないと見なす一部の論者を助けている。そして、第二次世界大戦ではなく、植民地支配ということでは、ドイツとは比べ物にならぬほど広範囲の土地と民衆を支配し、搾取、抑圧、虐殺を行ったイギリス、フランスは謝罪していないし、賠償もしていないのではないか…。それはつまり戦勝者の論理=国連の成り立ちでしかないのではないかという論者の議論にどう反論を構築していけるのだろうか…。誰もが免罪され、現状追認にならぬよう、この裁判が始まればいいと密かに思っている次第である。

(2006年6月1日)

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