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Habari za Dar es Salaam No.65   "Towards new Perspectives of African History" ― 紹介『新しいアフリカ史像を求めて』 ―

更新日:2020年7月2日

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は、富永智津子・永原陽子編『新しいアフリカ史像を求めて』(御茶ノ水書房2006)を紹介したい。副題に「女性・ジェンダー・フェミニズム」とあり、苦手なテーマであるので、到底書評とはいかず、紹介と感想にとどまる。


本書の構成は以下の通りである。

第Ⅰ部 フェミニズムと歴史

 第1章 フェミニストによる歴史がアフリカを変革する

 第2章 タンザニアにおける女性史研究

 第3章 マイ・ムソジとアフリカ人女性クラブ

 第4章 史料の中の女性たち

第Ⅱ部 奴隷制の再考にむけて

 第5章 奴隷制再モデル化の試み

 第6章 東アフリカ沿岸部における奴隷制と女性

第Ⅲ部 抵抗運動史の再検討

 第7章 マジマジ反乱(タンザニア)再考

 第8章 オムドゥルマーンの娘たち

 第9章 女性の目で見るアパルトヘイト

第Ⅳ部 生活史の中でのジェンダー闘争

 第10章 北部ナミビアの歴史と女性のイニシエーション

 第11章 南アフリカにおけるジェンダー闘争

 第12章 罪深き人々とアウトサイダーたち

第Ⅴ部 歴史と文学のはざまー女性たちの語りから

 第13章 南部アフリカにおける女性たちの声

 第14章 南アフリカの女性たち

 第15章 家父長的ナショナリズムの再検討 

 執筆者は15名。その国籍・出自については多岐にわたると思われるが、表記はない。これはそういうことにこだわらない編者たちの姿勢かと思う。日本人は4名で、アフリカ人は4~5名だろうか、南ア人とナイジェリア人、タンザニア人であると思われる。触れられている内容は東、南部アフリカに偏っているが、これは日本におけるアフリカ研究の現状を反映している。その中でもタンザニアに絡む章(2,4,6,7,12)を中心に紹介したい。

 まず興味を引くのは、スワヒリ社会における奴隷制の再検討であろう。キリスト教・大西洋世界での奴隷制と、イスラーム・インド洋世界での奴隷制の位置づけ(東アジア世界の奴隷制はこの際置いて)は異なるわけだが、その中での女性の位置づけという観点である。第5章は欧米における奴隷制研究の分析で、従来はジェンダー的視点に欠けていたがゆえに、女性の奴隷労働を、家内労働、性的労働に矮小化してきたことを指摘する。

 第6章はモンバサを中心としてラム、ザンジバルを含んだ東アフリカ沿岸部のスワヒリ社会の調査からの分析である。貧しいスワヒリ自由人の父と奴隷妾であった母との間に生まれたビ・カジェという女性への聞き取りから、20世紀初頭奴隷制度が廃止されたころのモンバサ社会での奴隷、元奴隷たちの位置づけを探っている。奴隷と言っても、捕虜奴隷、債務奴隷、奴隷の子どもとして主人の家で生まれた子ども(ワザリア)を区別し、ワザリアたちがスワヒリ・イスラーム社会への同化が進み、一定の権利を持っていたこと。家内労働が自由人女性の社会的地位との関係で決められていたこと、解放後カニキに代わり、カンガやブイブイを着用していったことなどを生き生きと描く。

 元奴隷の女性たちのアイデンティティを確認する中で、モンバサやザンジバルで行われた成女儀礼(ウニャゴなど)に触れ、奴隷のサブカルチャー的要素がスワヒリ文化の本流に統合されていった部分を記す。この章の筆者マーガレット・シュトローベルは「スワヒリ文化はこれまで議論されてきたようなアフリカ文化とアラブ文化の組み合わせから生まれたものではなく、(アフリカ人)奴隷の文化と(アフリカ人とアラブ人の)自由民の文化との組み合わせから生まれたものなのである」と述べている。この議論が妥当かどうかというのは、スワヒリ文化の研究を続ける中から答えていきたい。


 第4章は、ザンジバルに住むファティマという、インド人、アラブ人、アフリカ人の血の混じりあった女性、まさしくインド洋世界の落とし子のような存在を例に挙げ、彼女の経済的自立志向の強さを示す。その後、古文書・年代記という文献史料の中での数少ない女性の登場シーンの分析、西欧からの航海者、旅行者の記録に登場する女性を見た後、イギリス植民地時代の離婚訴訟の裁判記録を分析する。イスラーム法の下でしばられていた女性にとって、イギリスの支配は部分的にではあるが、女性を解放する場を提供したとする。

 第7章は、あまり激しい民族解放闘争を経験せずに独立してしまったタンザニアにとって、大事な民族運動の記念碑であるマジマジの反乱の意味を問い直そうとする。独立後、国家の統一のため、ダルエスサラーム大学歴史学科ではナショナリスト史観ともいうべきものが形成され、マジマジ反乱を光輝あるものともてはやしてきたとし、それを批判的に検証する。反乱に積極的に参加しなかったとされるザラモ人地域の女性たちをドイツに残された文献資料から、反乱前夜男性がプランテーションや中央鉄道建設のための出稼ぎ労働に出ることを余儀なくされ、女性が農作業を担うことになり、なおかつ換金作物(綿花)の導入で、食料生産の不足、飢饉に近い状況があったことを明らかにする。そして反乱後多くが難民となるなか、農村における家父長制の揺らぎ、女性の自律性や主体性の高まりが見られたとする。そしてタンザニア独立後のナショナリスト史観の高まりは、そういった女性の役割を無視してきたとする。

 第12章は、ムベヤ州ルングウェ県でのエイズの広まりの分析である。植民地時代に出稼ぎ(タンザニア各地および南部アフリカ)に男性が出かけるようになって、女性の農業労働の比重が高まるのだが、独立後のその禁止や、ウジャマー時代の変遷のあと、1980年代後半に始まる構造調整政策の結果、小農経済の低迷およびその中で広がったエイズに対する長老、若者、男性、女性、教会などの反応を調査する。マラウィへの交通路に沿い、また紅茶工場が出来たことによるエイズの広がり、教会や長老のとまどい、女たちの反撃などに触れるが、目新しいものはない。


 第3章はジンバブウェのハラレ・タウンシップにおけるアフリカ人女性クラブの指導者だったマイ・ムソジの生涯をほとんどない教会、植民地政府の文献資料に加え、子孫、関係者への聞き取りで再現している。現在のハラレ郊外のショナ人の娘として1885年頃生まれたムソジは、ローデシア建国に対するアフリカ人の抵抗・それに対する弾圧の中で両親、土地を失う。少女期、カソリック・ミッションの教育を受け、南ア出身の植民地警察官と結婚したムソジは、当時としては伝統的共同体と少し距離を置いた都市住民として生活を送ることになる。女性の自立の要因である自分の所得を確保していったムソジは、1938年に結成されたアフリカ人女性クラブの代表となる。このクラブは都市へのアフリカ人女性の流入を規制しようとする植民地当局と戦いながら、女性の自立のための裁縫・編物教室や、赤十字教室を開催し、女性の所得の確保、自立への道を開いていくことになる。

 第8章はマフディー運動下のスーダンでの女性の役割に触れている。エジプト支配に対する成功した民族解放闘争であったマフディー運動であるが、それは抵抗の軸にイスラーム原理主義があったわけで、イスラームの厳密なジェンダー規範と女性の参加との関連を検証しようとする。マフディー運動の初期は、ヌバとか西部遊牧民に支えられていた要素が多く、つまり非ムスリムを多く抱えていたわけだが、その女性たちの積極的な参加と、マフディー王国が出来た後の規制の強化に触れる。スーダンというのはブラック・アフリカとアラブ・アフリカの接点にあり、南部スーダンへのシャリーア(イスラーム法)の強制と内戦、現在のダールフール地方での虐殺との関連に思いを馳せてしまう。

 南アフリカ、特にアパルトヘイト下の女性の運動についての章(9,11,13,14)が多い。アパルトヘイト体制下で、アフリカ人女性は人種的、階級的差別以外に、性的抑圧も受けていた。特に都市に流入する女性を「社会的不穏な要素」として取り締まろうとするパス法規制の強制を分析することにより、アパルトヘイトの再解釈、南ア現代史の再構成が可能になるという。  第Ⅴ部は「歴史と文学のはざま」と題して、アパルトヘイト下の南ア、半植民地闘争下のジンバブウェでの女性の記録を再現しようとする。植民地支配によって「読み書き」が導入されると女性の声は小さく沈黙させられる。その原因を問いつつ、従来の史料ではない手紙、説教、証言、スピーチといった文書、更には口承伝承を掘り起こすことによって「歴史の書き換え」を可能にしようとする。つまり、歴史の形成に女性が重要な貢献をしなかったという印象を与える歴史の叙述は、歴史の歪曲なのだということである。

 第10章は面白い。北部ナミビアのオヴァンボランドにおける女性のイニシエーション儀式(エフンドゥーラ)を口頭の調査、教会資料そして植民地統治官の残した写真資料から考察する。南部アフリカでは、19世紀に例えばズールーのシャカ王のように中央集権化を図るために男性のイニシエーション儀式を廃止していった民族があった。オヴァンボのクワニャマもその一つだったが、逆に女性の儀式(エフンドゥーラ)は積極的に活用されるようになった。それを批判するキリスト教宣教師との対立に、「健全な部族伝統」として保護宣伝しようとする植民地担当官の施策がからみ、複雑な様相を示す。植民地統治官は、「間接統治政策の成功」を示すために部族の伝統や権威を国際的に公開しようとし、そこで間接支配に必要な伝統的な首長の利害と結びつき、儀式の「男性化」が進んだのではないかという仮説となる。植民地時代に、統治官、宣教師が素人民族学者となって資料を残したわけだが、その文献史料や写真をどう扱うか、特に残された写真をどう眺めるか、写真にはでていない撮影者の目線を考えると興味深い。


 私は実は出自や年齢にこだわっている。その人の出身地や青年時代をどこで過ごしたかが、その人の歴史認識に大きく影響しただろうと思うからである。ただ、これは注意しないと先入観・偏見に繋がるかもしれない。私自身がタンザニアの歴史を志した時、タンザニアの歴史はタンザニア人によって描かれざるを得ないと、一種の諦念の気持ちになったことを覚えている。それは自分の語学力・能力の問題でもあったのだが、書かれた文献史料が少ない中、聞き取りに頼る歴史の掘り起こしはやはりその土地出身の人間でないと出来ないだろう。外国人による聞き取りに対して、村の古老達は本当に心を開くことはないだろうと思ったのだ。だから、私はスワヒリ海岸と海外との交渉史を選んだ。タンザニア人があまり興味を持たず、外国人がやる余地が残っている部門という選択だった。

 もちろん、これは消極的な観点からだけではない。例えば外国人の研究者に、日本史が分かるか!とは言えないように、外国人だからこそ出来ることもあるだろうと思っている。特に当時のタンザニアの歴史研究はナショナリズムの傾向が強かったし、またどうしても欧米(特にイギリス)のアフリカ史研究の下で博士号を取った人たちが中心だから、欧米のアフリカ史観に強く影響され、かつヨーロッパとアフリカの二項対立に囚われ、アジア特に中国や日本の歴史なんて視野の外にあるように見えた。世界史を再構成するためにアフリカ史をどう位置づけるかという意味で日本人が出来ることがあるのではないかというのがささやかな私の狙いだった。ただ「世界史」という観点がもしかしたら日本独特のものではないかという指摘を受けると、それにはまだ考えがまとまっていない。

 本書は国立民族博物館の研究助成を得て行われた調査から書かれた論文、シンポジウムの報告書で、翻訳も多く、一般の読者を想定して書かれたわけではないので、読み通すのはなかなか根気のいる作業である。章によっては具体的な史実より、方法論、理念中心の叙述で、興味を維持するのが難しい。また、学術用語が説明もなく突然出てくると、文意が取れなくなる(例えば第5章、6章に頻出する「エージェンシー」や「マスキュリニティ研究」など)。学術論文の翻訳なので仕方ないと思われるが、日本語として定着していない外国語を翻訳ではない文章でも多用するのには違和感がある。総じて萌芽的な研究で、アフリカ史が大きく書き換えられることを予感させるが、素人ではない研究者がそういった成果を一般の読者にかみくだいて伝えることは、その次の目標になるのだろう。

 この文章中に載せたザンジバルの女性の絵は、本書の各部の扉絵として使われているものであるが、全て富永智津子氏の筆による。なお富永氏は名著「ザンジバルの笛」(2001年、未来社)の著者で、ザンジバルを歴史記述の中で紹介されたが、それ以外も精力的に翻訳書も出されている。今年3月刊行された「マウマウの娘ーあるケニア女性の回想」(2007年、未来社)は部分訳である、ケニア現代史の史料として迫力のある内容である。

(2007年9月1日)


ダルエスサラーム物価情報(2007年9月)US$1=Tsh1,282シリング

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