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Habari za Dar es Salaam No.83   "Tanzanian Railways" ― タンザニアの鉄道 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 タンザニアの中を走っている鉄道は2つの会社によって経営されている。一つはドイツの植民地時代に建設された中央線(Central Line)を中心とするタンザニア鉄道、通称TRC(Tanzania Railways Corporation)で、もう一つは1970~76年にかけて、中国の援助で建設された隣国のザンビアと結ぶタンザン鉄道、通称TAZARA(Tanzania Zambia Railways Authority)である。2009年1月になって両方ともその存廃の危機が表面化した。その歴史と現在を簡単に見てみたい。

📷 タンザニア鉄道地図  TRCの建設は19世紀に始まっている。最初はタンガからモシを結ぶ北部線(地図中のB)だった。ウサンバラ、キリマンジャロといった高原の白人の入植地の商品作物(コーヒー、サイザル麻など)をタンガ港から輸出するためだった。最終目的地はセレンゲティを抜けて、ビクトリア湖畔まで視野に入っていたらしい。1893年5月に建設が始まり、強制労働などを使い、ムヘザ、コログェ、サメとゆっくりゆっくり伸びて行き、1911年9月モシまで到達した。その後アルーシャまで延伸され(これはイギリス人の手によって1930年完成)、第1次世界大戦の際にイギリス軍がドイツ領東アフリカに侵攻するために、ヴォイからタベタを経由して、モシの手前のカヘまでつないだ(1916年)。これは戦争のための緊急輸送用の手段であったが、ケニアと鉄路がつながったのだ。ビクトリア湖までの延伸は、ウガンダ鉄道が1901年に先に到達したので沙汰やみになったと思われるが、その後1990年代に入っても亡霊のように登場する。

 TRCの中央線(ダルエスサラーム~キゴマ、地図中のA)の建設は、計画は1894年ころからあったものの、北部線に遅れ、1905年2月に始まった。これは19世紀の象牙、奴隷を中心としたキャラバン貿易の道をたどっている。1907年12月、モロゴロまで開通した。しかし、1905年7月にタンザニア南部で起こったマジマジの反乱により、建設は大きく影響を受ける。モロゴロから先の建設が再開されたのは1908年6月で、ドドマを経由してタボラは1912年2月、そして終点であるキゴマに到達したのは1914年2月であった。当時はベルギー領であったコンゴからの物資の輸送も想定していたらしい。現在も現役であるタンガニーカ湖の汽船Liembaがキゴマまで運ばれたのも1914年である。

 TRCには支線もいくつかある。もっとも重要なのは、中央線のタボラからシニャンガ経由のムワンザに北上する路線(地図中のD)で、これは昔のキャラバンルートの分岐した道をたどっている。ドイツの植民地時代に建設は開始されたが、第1次世界大戦ですぐ中断、1928年イギリスにより開通した。次いで、これは第2次大戦後の建設だが、中央線と北部線をつなぐ連絡線(地図中のC)である。他にムパンダ線(カリウア~ムパンダ、地図中のE)、シンギダ線(マニョニ~シンギダ、1932年開通、地図中のF)、キダトゥ線(キロサ~キダトゥ、地図中のG)がある。ムパンダ線は鉛鉱山のために、1950年開通した。かつては各支線も乗客を運んでいたが、今は辺境にあり道路が整っていないムパンダ線だけが乗客を運び、他はバスとの競争に負け、稀に通る貨物列車のみが細々と走り、廃線を待っているかのようだ。

 TRCは植民地時代の建設だから、当然商品作物の産地から、海外への輸出港(ダルエスサラーム、タンガ)への路線になっている。植民地時代、どういう商品が鉄道によって運ばれたのか。 1924~1948年の貨物統計を見てみると、上位から順番に、サイザル麻、穀物、綿花、材木、銅、落花生、薪、セメント、粉(食料)、コーヒー、石油、塩などが並んでいる。 サイザル麻は常にトップで、穀物も安定している。銅は当時のベルギー領コンゴのカタンガ州からの輸出だが、大恐慌の影響で1932年になり大西洋経由の輸出に変わって途絶し、鉄道経営に大きな打撃を与えた。第2次世界大戦が始まった1939年ころから、材木、薪、セメント、粉(食料)、石油などが急増している。

📷 タンザニア鉄道のキゴマ駅  TAZARAの建設は、1965年のUDIに端を発する。当時のローデシア白人少数派政権が、多数派支配を拒否してイギリスから一方的独立宣言をしたことにより、国際的に経済制裁を受け、銅の輸出先を別ルートで探さなければいけなかったザンビアの輸出ルートとしての鉄道である。同じ時期、大西洋に向かうべンゲラ鉄道もアンゴラ内戦で使えなくなっていた。詳しく書かないが、経済的側面から欧米諸国が支援、投資をためらったあと、中国が「南南諸国の相互支援」として乗り出し、破格の条件で、人員を大量に注ぎ込んだ人海戦術で6年間で開通させ、その名を高めたのは有名である。中国のアフリカ大陸への進出のさきがけとなった。当時の中国人は文化大革命のさなかで、人民服を着て常に団体行動で、スワヒリ語をしゃべらず、タンザニア人と交わらず、キャンプで白菜などを栽培し、現物支給された南京豆や青海麦酒が、ときどきダルエスサラームの魚市場で売れていた時代だ。

 現在、アフリカ大陸では、アンゴラ、スーダンなど石油をはじめとする地下資源を豊富に埋蔵する国々には中国人の姿がおびただしく見られるという。タンザニアは地下資源は今のところ限られているが、中国人の姿は多い。そのきっかけはタンザニアのアルーシャ宣言(ウジャマー社会主義の採用)とTAZARAの建設だろう。タンザニアにとって中国は常に大切な友好国だった。ダルエスサラームのカリアコー地区という下町は、インド系、アラブ系の小店舗が軒先を連ねているが、最近は中国人が店主のものも出てきたようだ。ダルエスサラームのチャイナタウンが出現するか、という笑い話も現実性を帯びてきているかも?

 TAZARAもそういった美談だけで順調に成長してきたわけではない。当初、中国製の機関車「東方紅」の馬力が足らず、キトンガ(イリンガ)の急勾配に苦戦し、1976年私が乗ったときは、平均時速35kmくらいの超遅速列車だった。その後機関車は(西)ドイツ製に取って代わられた。ローデシアが、解放戦争の後、1980年にジンバブウェとして独立すると、銅の輸出ルートも本来の短いルートに戻った。また、TAZARAの沿線は(マジマジの反乱の影響で)人口過疎地域であるため、沿線の物資、人員の輸送の需要が伸び悩んだこともある。有力な貨物輸送の対象であった、イリンガ州の紙工場も閉鎖されてしまった。

 実はタンザニアにはもう一つ鉄道があった。イギリスによって南部のムトワラから内陸に向かって作られたものである。第二次大戦後の復興計画の一環として、イギリスによるタンザニアに対する最後の植民地政策として、中央部南部タンザニアでは食用油用の落花生の栽培が奨励された。その輸送手段としてムトワラ港からナチングウェアまでの鉄道が敷かれた。リンディからの支線が1949年先に完成し、ムトワラからの本線は1954年に開通した。最終的にはニャサ湖まで延伸し、内陸国だった現在のマラウィの物資輸送の出口を意図していたらしい。ただ、落花生の世界の需要がイギリス本国政府の思惑とは大幅に食い違ったこと、また南部は人口過疎、経済的にも貧しい地域で、鉄道は短命で数年しかもたず、今は道路になっている。今、南部の奥深く(ニャサ湖近く)に豊富な石炭の埋蔵が確認されているが、輸送手段がない。

📷 タンザニア鉄道の乗客と貨物の経年変化  TRCとTAZARAの乗客数、貨物量の変化を追ってみよう。タンザニア銀行とか経済企画庁の「経済報告」の各年度版の統計数字を利用している。手許にあるものだけで作ったので、数年空白がある。また各資料ではなく、同じ資料の中での数字の異同があり、明らかに間違えているだろうと判断したものは訂正してあるので、絶対に間違いのない数字とは思わないでいただきたい。TRCの数字は1961年、つまりタンガニーカの独立からである。

 まずTRCの方だが、2007年の数字は、乗客数52万人、貨物量は71万トンに過ぎない。これは最盛期(1975年)の乗客数526万人、貨物量146万トンと比べると、乗客数は10分の1、貨物量は半分に落ちている。特に乗客数の落ち込みが目立つ。グラフには載せなかったが、独立前(1945年)の乗客数は152万人という統計があるから、人間の移動手段としては、鉄道は大幅に比重を減らしている。私自身が旅をしていた1975~76年は今思うと最盛期だったようで、鉄道旅行者は多かった。また私がダルエスサラーム大学の学生であった1984~86年のころでも、大学生や一般庶民の帰省手段としては、バスに比べると遅いけど安い、あるいは安全という選択肢となっていた。今では、キゴマとかムワンザとか本線が走っている遠隔地で、飛行機代は出せない旅行者の移動手段としてのみ残っている感じだ。

 TAZARAの方も歴史は浅いが、最盛期の乗客数228万人(1992年)、貨物量124万トン(1977年)と比べ(ただし、1980~85年のデータは欠落)、2007年は乗客数100万人、貨物量57万トンだから、共に半分以下で、特に貨物量の落ち込みが激しい。これでは経営を維持できないだろうと想像される。やはりジンバブウェと解放、独立後、経済制裁が解除され、ザンビアの銅の輸出が短いジンバブウェ~南アルートに戻ったことが大きいのだろう。

📷 タンザン鉄道の乗客と貨物の経年変化  さて、2つの会社の危機は、今年初め、新聞でも露呈した。TRCは2007年からインドの会社(RITES)が株をTRCの株を51%取得し(49%はタンザニア政府)と50年の経営契約を結んでいるのだが、どうも経営状況が思わしくなく、不採算路線を切り捨てたいとRITESは思っているらしい。具体的に言うと、中央線と北部線以外の支線は全部ということだろう。 

 1月17日付けの「Daily News」の記事によれば、キクウェッテ大統領は次のように述べている。「タンザニアの鉄道はTRCの財産ではなく、100%タンザニア政府と国民のものである」。つまり、RITESが株の多数を握っていても、タンザニア政府の同意なく、TRCの大きな経営方針を決めることは出来ないということだ。この大統領の声明を読むと、RITESの経営陣が目指したものが想像出来る。    ・海外からの資金導入   ・北部線(タンガ~モシ~アルーシャ)、ケニアとの連絡線(カヘ~タベタ)、キダトゥ線、シンギダ線の廃止。   ・更なる免税措置(税制上の優遇)   であったようだ。不採算路線の廃止に関しては、「タンザニア政府は全路線を貸与しているのであり、一部路線ではない。RITESは契約前に事前調査をしており、全路線で採算性があると判断したはずだ。一部路線の廃止、鉄路の撤去は破壊行為に等しい」と強く批判している。

 さて、51%の株を握って経営に乗り出したRITESがこの後どんな手を打つか?「約束が違う」と撤退するか?2月になって、週2便の普通列車に加えて、キゴマ行き、ムワンザ行き3等寝台急行の導入が発表された。キゴマまで40時間、ムワンザまで39時間で結んでいる普通列車に比べて4時間スピードアップするという。つまり途中は大きな町の駅にしか止まらないようだ。なぜ3等寝台だけなのか、また通常数時間~10時間以上遅れる列車より4時間速いことが、どれだけの意味を持つのか、まだ不透明である。

📷 タンザン鉄道のダルエスサラーム駅  TAZARAに関しても、今年1月にのTAZARA総裁がかなりの赤字経営であることを訴えている。TAZARA総裁は、昨年9月に前任のザンビア人総裁の後任としてきた、やはりザンビア人だが。1月8日付け「Daily News」で次のように述べている。    ・現在の負債額は6,000万ドルである。   ・その主要な原因は経理の乱脈さ、破壊行為による。    ・2007年に中国資本に売却することも検討された。   ・不正の例として、従業員の無料切符、無料貨物クーポンの濫用が挙げられる。    ・2,170両の貨車の内使用可能なのは1,319両、同じく96両の客車の内46両、31両の機関車の内22両が使えるに過ぎない。   ・さしあたり80億シリング(約5億6千万円)ほどが、日常の補修維持に必要だ。 

 しかし、線路も客車も老朽化の目立つTRCよりも、TAZARAの方がまだ新しく、乗り心地もいい。貨物に関しても、以前のモノカルチュア経済から商品経済は多様化しているし、輸出相手国が圧倒的に欧米諸国だった時代から、いまやアジアの時代というか、インド、中国、日本への需要が着実に増えていけば、まだタンザン鉄道の価値は上昇する余地が大いにあると思うのだけど、どんなものだろうか? 

 さて鉄道とその沿線風景を淡々と紹介する長寿番組テレビ朝日系「世界の車窓から」で、タンザニアの鉄道がもうすぐ紹介される(2009年3月~5月)。最初はタンザン鉄道のザンビア側からのようだが。その撮影を弊社がお手伝いしたが、印刷された時刻表すらなかなか入手できず、その時刻表もあまり当てにならず、出発時刻は定時としても、ずるずる2~3時間からひどい時には12時間以上遅れる。従って、いつどこで撮影できるか、特に空撮するのは昼間だから、その時刻にどこを走っているか、読むのが大変だった。定時であるはずの出発が半日遅れになったこともある。どのような番組になっているか、とても楽しみである。 

☆参考資料☆M.F.Hil『Parmanent way 2』(East African Railways and Harbours,1957)

(2009年3月1日)

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