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Habari za Dar es Salaam No.86   "Bomu in Dar es Salaam" ― ダルエスサラームでの爆発事件 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 4月29日(木)ダルエスサラームで爆発事件があった。比較的近くの高いビルからは燃え上がる炎がしばらく眺められたらしい。人によっては、雷鳴を聞いたとか、ビルが揺れるのを感じたようだが、私は全く気が付かなかった。事件があったのは11時45分ころらしいが、15時ころになって私は炎上を眺めていた日本人からの電話で知り、タンザニア人のスタッフに訊いたら、ちゃんと知っていて「バガラ(Mbagala=ダルエスサラームの地名)の軍の基地で爆弾が爆発したらしい」と教えてくれた。 

📷  そのすぐ後、日本大使館から問い合わせの電話を貰い、「どうしていますか?退避されますか?」と訊かれた。全然、そんな気はなかったので戸惑った。スタッフに訊くと、首相府からの命令で高いビルにいる人は退避するように指示が出ているという。私たちのオフィスがあるビルは7階建てであるが、オフィスは3階にあるのだ。「7階建てのビルはダルエスサラームでも高い方だけど、3階にいる場合はどうなのかな?」とのんきな反応をしていた。テロかもしれないという気は全くなかったし、万一テロだとしても、狙われるような要素は全くないビルだったからだ。ただ、街中を見ると家路を急ぐ車で大渋滞しているし、周りの勧告に従って早めにスタッフを帰し、私自身は渋滞が収まるのを待って帰った。

 ダルエスサラームでテロ事件がないわけではない。というか、1998年のアメリカ大使館突入爆破事件があったのはよく知っている。アルカイーダによるとされるケニア、タンザニアのアメリカ大使館同時爆破事件である。その日、私はマハレからの帰途でキゴマにいたが、ニュースで知った。後日、大使館に突入し炎上したタンクローリーは、私の車をよく出しているガレージで改造されたので、そのガレージがしばらく閉鎖されていたことも知った。

 だから、タンザニアで全くテロ事件がありえないわけではないのだが、「すわっ、テロか!」とは正直全く思わなかった。「あっ、誰かが間違って扱っていた爆弾を落として、誘爆させたな」という反応だった。だから、連続爆発という恐れは全く感じなかったのだが。バガラというその地区出身の運転手の家の家族は退避させられ、運転手自身はその日家に帰れなかったようで、その地区の住民にとっては大事だったのだ。

 その後の新聞報道によると、死者は26名(軍人6名、一般人20名=5月5日現在)、全壊・大破した家は275軒、何らかのダメージを受けた家屋は3,300軒以上、家を失った人は4,000人以上という数字である。家を失った人たちはUNHCRなどの用意したテントで生活している。緊急食料援助も実施されたが、すぐ横流しの噂が流れた。

 最終的な報告はまだ出ていないようだが、5月20日付けの発表によると、 何らかのダメージを受けた家屋は7,832軒に達し、217人の子どもが難聴などの影響が出ているとのことだ。ただ、最終的な死者数は26名で止まっているが、軍人がもっと死んでいるはずだという一般市民の疑いは晴れていない。

📷 さらに後日談がある。また爆発は起こったのだ。正確に言うと、5月7日、残っていた爆弾75発を軍が爆発させ、処理したのだ。軍は「心配ない」と広報したが、バガラ地区の住民は避難して、遠巻きにして見守ったようだ。 そして無事に爆発させ、翌日の新聞には「もう大丈夫。コントロールされてた」と報道されたが、その2日後にさらに爆発が起こってしまったのだ。2度目の爆発事件では「被害者はいない」ということだが、70数名が倒れたという話だ。

 タンザニアのように平和な国に爆弾の貯蔵など不要、コスタリカのような軍隊放棄の国になってもいいのにと思うが、現実にイディ・アミンのウガンダ軍に侵入されたし、ルワンダ、ブルンジ、コンゴ、モザンビークなど内戦の絶えない(あるいは長く続いた)国々と国境を接しているから、警察だけでは不安であるだろう。

 この事件を通して感じたのは、タンザニアのジャーナリズムの脆弱さである。タンザニアは長いこと社会主義だったから、ジャーナリズム(新聞、ラジオなど)は政府に統制され、政府、政権党(CCM)の広報機関だった。1993年の自由化方針から、民間の報道機関、新聞、テレビなどが生まれ、政府あるいは政権与党からは独立して報道するようになった。しかし、全く政府の統制から自由かというとそうでもない。「国家の安全と統一」のためには、「言論の自由」は制限されることがままありうる。かつて、ザンジバル政府に批判的な記事を載せた『Majira』という当時最も売れていた本土発行のスワヒリ語紙が、ザンジバルには1年以上持ち込み禁止になったことがある。

 それはともかく、報道(テレビ、新聞)の中で「何が原因でこの爆発が起こったのか?」に触れられることがなかったように思う。報道は、被害状況、被災者の声、軍・政府関係者の対策などを伝え、一番知りたい「なぜ起こったのか?」が意図的に触れられなかったように思う。一般市民が思うに、原因は「軍人の怠慢」しか考えられないように思うのだが、そういうことに突っ込もうとするジャーナリストはいなかったように感じる。

 今後、どういう報告書が出てくるのか、あるいは出ないのかは分からないが、「怠慢」で一般市民の生命が多く失われたとしたら、誰かが責任を取らないといけないだろうと思う。軍の基地司令官、総司令官、その上の国防大臣まで責任は及ぶのではないかと思う。ただ、5月末までの段階で国防大臣の責任を問うような論調は見なかった。この大臣が来年の総選挙で与党のザンジバル大統領の有力候補に擬せられていることと関係あるのだろうかといううがった見方もある。その大臣の父親がかつて内務大臣だった時に、起こった拷問事件の責任をとってすぐに辞任したことを思い出す国民も多いのだが。

 おりからというわけではないが、5月3日の「世界出版(Press)の自由の日」に主賓で挨拶した国会議長は「タンザニアは1976年の新聞紙法と1995年の国家安全保障法の時代遅れの部分を早急に改正し、言論の自由を尊重しないとけない」と述べた。当時有力企業人同士の非難合戦がマスコミを賑わしていた。さらに5月21日の新聞記事のトップは、「キクウェッテは表現の自由を再保証する」ときた。これはアメリカ公用旅行中のキクウェッテ大統領が、ロサンジェルスで在住のタンザニア人と会見した際のスピーチである。個人に対する侮蔑的な攻撃を除き、言論・表現の自由は保証され、文化的寛容・政治的成熟の社会が生み出すことが出来ると述べている。最近多発している高級官僚の汚職の摘発、有力企業家同士の相互暴露という風潮にどうやって対応していくのだろうか。

 もっともタンザニアの言論の不自由さだけをあげつらう気はない。「言論の自由」が自明のこととされており、時によっては第4の権力とまで言われることのある日本やアメリカ合州国や西欧諸国のような「自由主義諸国」でも、程度の差こそあれ同じであり、最近の日本のジャーナリズムの報道は目を覆うようなレベルの低さを感じないこともない。現在のレベルは、権力に対するチェック機能というジャーナリズムの本旨から逸脱しているように思えるのだ。

(2009年6月1日)

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