根本 利通(ねもととしみち)
グギ・ワ・ジオンゴ著、宮本正興訳 『泣くな、わが子よ』(第三書館、2012年刊、1,400円)
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ケニアのみならずアフリカ大陸を代表する作家であるグギ・ワ・ジオンゴの出世作である(1962年)。第二作であるが、出版は最も早い(1964年)。第一作は『黒い救世主』(1961年、のち『川を隔てて』と改題され1965年出版)で、私は長編第三作になる『一粒の麦』(1967年出版)を、30数年前に京都の研究会で英語で読んだが読了しなかった記憶がある。
グギがその後ナイロビ大学の英文学科の教員となり、英文学科の授業内容を英国文学からアフリカ人作家の作品研究に変革したこと、ジェームスというクリスチャンネームを捨ててアフリカ名を名乗るようになったこと、1977年のギクユ語の演劇『したい時に結婚するわ』上演活動に端を発し長期の拘禁を受けたこと、その後民族語による作家に変わっていったこと、長い間祖国に帰国できない亡命状態に置かれたことなどはあまりにも有名なので、ここでは繰り返さない。
小説であるから、あらすじの紹介はできるだけ避けよう。本書の時代背景についてである。英国から独立前夜のケニア植民地で、いわゆる「マウマウ戦争」が展開されていた時代だ。グギ自身の少年期と重なるので、その当時のケニア植民地の政治・社会状況と重ねてみよう。
第二次大戦中に英国軍に徴兵され、インドやビルマで日本軍と戦って復員してきた兵士たちには多くは失業中である。1946年、英国に15年いたジョモ・ケニヤッタが民族の期待の星として帰国し、翌年KAU(ケニア・アフリカ人同盟)の総裁に選出される。1948年リムルを拠点としたゼネストが行なわれた。
1952年10月キアンブの首長が暗殺されたのに伴い、非常事態宣言が行なわれ、ケニヤッタ以下200名近いKAU幹部が逮捕・拘禁され、白人たちが「マウマウの反乱」と呼ぶ事態が、1956年10月のゲリラの指導者デダン・キマジの逮捕の後まで続く。この間、ナイロビで大量の逮捕者が出たり、村人たちは戦略キャンプに強制移住させられたりという、大きな弾圧が続き、犠牲者を生みだした。アフリカ人の死者だけで1万5千人以上と言われる(諸説あり)。もちろん白人、インド人にも死者は出た。
「マウマウ戦争」を主にギクユ人による限られた土地奪回闘争と貶しめる議論もケニアのなかでないこともなかったが、今やテロリスト活動ではなく正当な反植民地闘争と位置付けられている。ケニア独立後、旧宗主国との協定で50年間封印されてきた「デダン・キマジ文書」も公開されているようだし、生存するマウマウ戦士に対する賠償も英国の裁判所で認められた事例が出てきた。「安重根はテロリスト」と言い放った政府高官は、植民地支配の責任を忘れようとしている。
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グギ・ワ・ジオンゴ
さて、この激動の独立前のケニアを舞台に、主人公のンジョローゲが貧しいなか、教育熱心な母親ニョカビの強い意向と家族の期待を一身に担って小学校に入学するところから物語は始まる。これはグギの自伝的な話でもあるので、ンジョローゲの軌跡はかなりグギのそれと重なるらしい。グギは1947年9歳の時小学校入学であるから、仮に同じだと想定する。
ンジョローゲの一家は、父ゴゾと二人の妻とその子どもたちで構成されていて、上の兄二人は大戦に従軍したが、一人は「白人同士の戦争」ために戦死し、帰還したボロも陰鬱である。ゴゾは借地人で白人農場で働いている。近くの町にはインド人の商人もいるが、村には同じギクユ人でありながら、うまく立ち回り土地持ちで、子どもたちを学校に送っている中産階級もいる。そういう中産階級のなかには、植民地当局の協力者となり、末端の行政官、あるいは名目首長と呼ばれる人間も出てくる。1948年にはキパンガ(リムル)中心にゼネストが呼びかけられるが、ギクユ人のなかでも分裂が露わになってくる。そして1952年10月の非常事態宣言に至り、「マウマウ戦争」が開始されるのである。
ゴゾの息子たちも周りと同じく森の戦士になっていく。ンジョローゲは一家の期待を担って学業を続け、優秀な成績をとり名門の高校に進学する。教会に通い、キリスト教の信仰を大切にし、「明日にはまた太陽は昇る」ことを繰り返し、自分に言い聞かせている。しかし同じ村の白人協力者が殺害され、その容疑者として兄が指名手配されると一家は崩壊していく。グギのアライアンス高校入学が1955年であるから、終章は1957年くらいのことかと思われる。しかし、1959年のホラ・キャンプの虐殺事件が出てくるから、12年間くらいの時間の経過だろうか。
グギと同じ世代(1936年生まれ)で、このマウマウ戦争のただ中に生きたギクユ人の女性の自叙伝がある。ワンボイ・ワイヤキ・オティエノの『マウマウの娘』である。ギクユの英雄であり大首長の末裔であったワンボイは土地持ち、奉公人もいる裕福な家庭に生まれる。父はミッションスクールを出て、警察のアフリカ人として初めて主任検察官になったというエリートである。ワンボイもプレスビテリアンの洗礼を受け、教会の禁止する女子割礼を受けず、伝統派と対立する少女時代を過ごしていた。
しかし、1952年の非常事態宣言の時、16歳でマウマウ運動に参加する。非常事態宣言の前にすでに宣誓を済ませていたという。女性であることを生かした偵察要員などで活躍する。自叙伝であるから当然自己中心・正当化は見られるが、困難な時代を強靭な精神力で生き抜く。しかし、普通の人たちが弾圧に負け、裏切ったり、スパイとなったりすることが頻繁に起こっただろうことは想像に難くない。隣人どころか、子どもを作ったフィアンセすら信じられない時代だったのだというのがひしひしと伝わってくる。
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小説-物語を現代史の史料として読んでしまうのは私の悪い癖だが、さてこの物語はどう読めるだろうか?
まず、世代の対立。第二次大戦に出征した若い世代ボロたちから見たら、土地を奪われてそのまま泣き寝入りしているように見える父親ゴゾの世代は情けない。伝統的な家父長制が揺らぎ、若い世代は武装闘争に向かおうとする。キリスト教は少なくとも若い世代には浸透しているようだが、この物語では大きなテーマにはなっていないように見える。
しかし、主人公のンジョローゲにとってはキリスト教信仰は心の支えになっているようだ。これは当時のグギ青年の心がそうだったからか。家族から見ると仇敵に当たる土地有力者の娘ムイハキとのささやかな友情、そして恋心の通わせ合い、そして駆け落ちの誘惑などというエピソードもあり、厳しく重たい時代の社会描写に少し甘さも入っている。執筆時の著者が24歳だったからだろうか。
遠い過去の不確かな記憶だが、『一粒の麦』のなかでは、確実に間近になった独立の前夜のギクユの村で、元植民地協力者と元マウマウ戦士の亀裂がはっきりと描かれていたのではなかったか。そして本書では「黒いモーゼ」として救世主、受難者として描かれている民族の英雄の下にケニアは1963年独立を達成したのだが、マウマウの戦士たちの名誉回復は大幅に遅れた。そして建国50年に、建国の父の息子が第4代大統領に選ばれ、ケニア最大の大地主と囁かれる現状である。本書の第1部は「薄れゆく光」、第2部は「闇がおりる」である。第3部は「陽はまた昇る」を予定していたのだろうか。「泣くな、わが子よ」と呼びかけた人たちはため息をつくばかりなのだろうか。
巻末に吉田昌夫さんの短い回想が載っている。吉田さんはグギと重なる時期にウガンダのマケレレ大学に留学されていた。その夫人(故人)ともお会いしたことがある。夫人が本書の翻訳を完成されていたということだ。懐かしい、先人の努力のエピソードである。
☆参照文献:
・Ngugi wa Thiong'o "Weep not, Child" (Heinemann,1987, First published in 1964)
・アフリカ文学研究会編『アフリカ人はこう考える』(第三書館、1985年)
・グギ・ワ・ジオンゴ著、宮本正興・楠瀬佳子訳『精神の非植民地化』(第三書館、初版1987年、増補新版2010年)
・Chinua Achebe "Things Fall Apart" (Pearson Education Ltd.,2008, First publised in 1958)
・ワンボイ・ワイヤキ・オティエノ著、富永智津子訳『マウマウの娘』(未来社、2007年)
・G.C.ムワンギ『「土地と自由のための戦い」か「マウマウ」か』(世界思想社『帝国への抵抗』、2006年)
・ジョモ・ケニヤッタ著、野間寛二郎訳『ケニヤ山のふもと』(理論社、1962年)
(2014年5月1日)
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